2025年5月9日(金)、2025年度学術フロンティア講義「30年後の世界へ——変わる教養、変える教養」第5回が18号館ホールで行われた。今回は言語脳科学を専門とする総合文化研究科の酒井邦嘉氏が「脳を変える教養、AIに変えさせない教養」という題目で講義を行った。
酒井氏は、AIの活用が日常化している現代において、私たちがある深刻な危機に直面していると指摘した。それは「脳に対する脅威」である。人間はもともと「楽をしたい」という動機からAIを利用し始めたが、「効率化」という免罪符のもとに、結果として脳を使わなくなってきている。この状況は、教育や創造の現場において極めて深刻であり、酒井氏はこれを「デジタル脳クライシス」と呼ぶ。インターネットやAIへの過度な依存は、思考する前に調べてしまう習慣を生み、思考力や想像力の低下を招く。また、書き手と読み手の間に築かれるべき信頼関係の喪失にもつながる。その解決策として、酒井氏は「AIの適切な規制」と「読書の習慣を取り戻すこと」の必要性を強調した。
講義の後半では、脳科学の観点から、人間に本質的に備わっている言語能力についての説明がなされた。人間の脳は、入力された情報を分析し、「普遍文法」に基づいて再構成し出力する仕組みを持っている。脳内における構造化は、理解と記憶を結びつけるとともに、想像力(=解釈する力)および創造力(=表現する力)の基盤を形成する。創造性を育むためには、幼児期からの十年にわたる情操教育が重要であり、一芸を通じて普遍的な力を養う全人教育が求められる。AI時代においては、文脈や流れを読み取る感性、そして何が本当にオリジナルであるかを見極めるセンスが、AIの意思決定を超える創造性の鍵となる。
講義後には、AIの利用に対する態度や立場について、学生と講師との間で活発な議論が行われた。中でも印象的だったのは、酒井氏が挙げたそろばんと電卓の違いに関する例である。そろばんは脳内でイメージ化でき、計算能力を高める一方で、電卓は入力・出力の装置であり、脳内にその機能を再現することはできない。そのため、電卓への過度な依存は、基礎的な計算能力の低下を招く恐れがある。報告者は、AIに対する姿勢についても同様の視点が必要だと感じた。AIは確かに利便性をもたらすが、依存しすぎれば人間の思考力が損なわれかねない。脳とAIの関係を見つめ直すことで、教養の意義を再考することが求められている。
報告者:席子涵(EAAリサーチ・アシスタント)
リアクション・ペーパーからの抜粋
(1)AIの進化は私たちの思考様式を根本から変えつつある。検索エンジンやチャットAIの普及によって、「考えるより先に調べる」「問いを立てるより先に答えを得る」という行動が日常化した。これは確かに便利だが、一方で「自分で考える力」や「問いを発見する力」が失われていく危機でもある。AIは膨大な情報を構造化してくれるが、問いそのものを発見し、意味を与えるのは人間だ。
教育現場や創造の場では、「すぐに答えを得られること」がかえって思考の筋力を弱めているように感じる。便利さという免罪符のもとで、私たちは知らず知らずのうちに「考えなくても済む」ことを肯定していないだろうか。AIはあくまで道具であり、その使い方次第で人間の創造性を広げることも、閉ざすこともできる。だからこそ今、意識的に「自分の頭で問いを立てること」を取り戻す必要があると私は考えた。
– 教養学部(前期課程)理科二類(教養学部(前期課程)・2年)
(2)AIは現時点における技術革新のフロンティアです。酒井先生のAIに対する警鐘は、最近の技術革新全般に当てはまることだと思います。100年前には考えられないほど強大な機能の行使と情報へのアクセスが可能となった今日において、検索によって簡単に銃の作り方やハッキング方法を得られるようになりました。私は現代を一人一人が核のボタンを持ち得る時代だと捉えています。各人が自身の行動が多大な未来への影響を持つことを自覚し、吟味し、倫理的に行動することが要求されるようになりました。環境問題然り、拡大してきた機能は既に地球のキャパシティという限界に近づきつつあります。社会が現状維持志向へ転換せねばならなくなっている中で、AIは皮肉なことにその解決策となり得ると考えます。
先生のお話にもあったように、人間は脳に入力された情報から分析、普遍文法、合成を経て何かしらの結果を出力するという営みを繰り返してきました。より良い出力を得ることを目的に、その思考過程が鍛えられてきたのです。しかし今日の技術革新は、その過程を無視する傾向にあります。誰もその仕組みを説明できないAIにより、私たちは直接出力を得ることが可能になりました。過程を経ずに当初からの目的であったより良い出力が得られるなら、過程を鍛える努力をしなくても良い。これまでの発展の終着点としての役割をAIは果たし得るのです。
これは教養にとっての危機でもあるのです。教養とは、まさにこの思考過程を鍛えることを言うのだと私は思います。発展の終着点は教養の終着点でもあるのです。では、発展の限界が迫る中、教養は自らの終焉を甘んじて受け入れなくてはならないのでしょうか。教養を学んでいく身としてはそうあってほしくありません。ここで求められることこそ、発展のための教養からの変革、変える教養なのだと思います。発展即ち幸福であった価値観から脱却し、他に幸福を生む方法を模索する。それが今の教養に求められているのではないでしょうか。
– 教養学部(前期課程)文科二類(教養学部(前期課程)・1年)

