李猛教授(北京大学元培学院長/北京大学哲学系)インタヴュー

北京大学EAAの中心メンバー・李猛氏(北京大学元培学院長/北京大学哲学系)に対するインタヴュー記事(2020年5月2日公開:https://mp.weixin.qq.com/s/ZpXWaHUNjuTGasj7f6245g)です。

本インタヴューは、北京大学で学部生向けに開設されている「思想と社会」学際プログラムの趣旨紹介として行われたものです。李猛氏は同プログラムの創始者の一人としてインタヴューを受けています。「思想と社会」学際プログラムは両校EAAの推進するジョイント・プログラムとは別個のプログラムですが、李猛氏の学部教育に関する考え方はEAAが目指す「東アジア発のリベラルアーツ」とも共通したものです。以下、翻訳して紹介いたします。

=======

1.「思想と社会」プログラムの理念
Q:こんにちは李先生。先生と他の先生方は当初どういった展望のもと「思想と社会」プログラムを打ち上げられたのかお伺いできますでしょうか。

李猛:なにより北京大学の学部教育に改革のチャンスを提供できるということがありました。大学当局は学際的な教育の推進ということを希望していましたし、私たち教員の多くも、学部教育にある一定の期間が設けられるべきである、すなわち、学生のみなさんがより専門的な研究にすすむ前に、全方面的な教育の経験がなされるべきであると考えていました。ここで教育といいましたが、例えば社会調査に赴くときには多数の概念・思想・理論を理解しなければならないわけですけれども、同じようにより抽象的な哲学を学ぶ時の社会に対する感受性というものが存在しているわけです。思想することと経験することが互いに互いを必要とするといっても、それは非常に具体的なもので、何も特別に大仰な学際というようなことではありません。それは必ずしも大学における一般教養教育の目標や理念と一致するわけではない。私たち教員の多くは経験された現実と理論との関係性の方に関心があるわけで、そこへ非常に重きをおいたわけです。

それから指摘にあった教員、たとえば渠敬東先生ですが、教員はいずれも大学の生態環境とでもいうべきものへ非常に留意しています。やはり私たちが望むのは教員と学生が、まずは学生自身が、そして教師がそこへ加わって、より相互の交流ある環境を作り出したいということなのです。私たちが学生であったころはそうした目標はそれなりに容易であったかもしれません。というのもあのころは比較的時間の余裕がありましたから。みんなそこまで忙しくなかったのです。今はだれもが忙しい。教師はもちろん学生も忙しい。教師と学生との交流が少なくなるのみならず、学生同士の交流も少なくなっているように私は感じています。私たちが望んでいるのは交流を促せるような環境があることです。学部時代における交流というのはみなさんの将来に向けた成長にとっておそらくたいへん重要なものです。非常に価値のあるものをそこからうみだすことができるでしょう。もちろん実際やってみるのはとても難しいわけです。誰も彼も忙しいわけで、時間をしぼり出すのは誰にとってもたいへんなことですね。

Q:「思想と社会」プログラムは「書を読むは生活へ立ち戻るために」を標語としています。この言葉を私たちはどう理解するのがよいでしょうか。

李猛:実はそれはだれもが学問するときに気になっていることです。大学における教育はみなさんの理解能力、思考能力、表現能力をシステマティカルに育成していきます。これらは学術的なトレーニングとしてはいずれも非常に重要なことです。しかしそこには危険もある。自身さえも本気にしてはいない、信じてはいないようなことを日常的に言ったり書いたりするようになってしまう。そしてそれが大学で養った力、ということになってしまう。次第に自分が言ったことを、実のところ自分が本当に信じていることと、あるいは自身の生活の中での実感とは全く遊離したことと思うようになってしまう。自分では賢げに書けたと思うかもしれないし、先生もよいものだと思うであろう、同級生たちもスゴいと思であろう。ところが実は自分のそうしたものの見方に当の自身が関心を持っていない。正直なところ、これもあるいは学術的なトレーニングの一部分であるのかもしれません。けれどもそれが次第次第に行き過ぎてきている。行き過ぎた末はどうか。将来的にみなさんが本当に研究者となった時に、ある研究を始めた時に、何なら研究者であるとは限らないかもしれないけれども、みなさんが社会にあって何らかの問題を考えるときに真摯な感受性というものを失ってしまうのではないか。自らの頭で判断することができなくなってしまうのではないか。いったいどうやって意思決定をしたらよいのか。いかなる方向に向かって研究をしていけばよいのか。どういったテーマを選び、どの方向にエネルギーを注ぐかの判断理由が、そうすればより簡単に結果が出るから、もしくは流行の研究がそういうものであるからとなってしまいはしまいか。私たち教員のうちの多くは学問的な流行に追随するような傾向をあまり好まない。何であれば押しとどめる立場です。価値のある学問は、大部分が学術的な流行に掉さすところへ立っています。学術的なブームが去ってようやく多くの人は残ったいずれに価値があるのかに気がつきます。ブームが盛り上がってきているときに彼・彼女らはそんなことを思わない。考えることさえもできない。ブームが去れば残るのは何らの魂のないものばかりです。真に独立した思考とは、学術的にトレーニングされた技巧の枠の外で自らの感じたこと経験したことの中から実感的に目を注ぐものでなくてはなりません。「生活へ立ち戻る」というのは私たちの希望です。プログラムを通じて、みなさんが学問と生活との関係を真摯に考えながら学問をするようになってほしいと望んでいます。

生活とは決して個人のプライベートの生活とは限りません。現代にあって私たちのプライベートは非常に薄く単調なものになっています。みなさん方の両親が経験してきた生活よりも、みなさんのそれはもしかすると薄く単調なものとなるかもしれません。概してみなさんはまっすぐに大学に入ってきて、人生において多数の出来事を経験することもなかった。それゆえにみなさんには辛抱強く観察するということが必要です。自身を観察し、社会を観察することです。その際に例えば、社会学のすぐれたところに結びつけながら観察してみて、さらにそれと思想研究のアプローチとを結びつけてみるというように。もちろん、私たちのカリキュラムは思想的なテクストと非常に強く結びついています。しかしそうした思想的なテクストを読むとき、経験的な事柄と相互の結びつきがよりよく生じるようになるにはどうしたらよいのでしょうか。私たちが重視する「生活」とは広義のものです。みなさんが学問したのち、生活に対する感覚をより深め、より豊かにしてもらうことを私たちは望んでいます。これはまたみなさんが望むことであるとも私は思っています。

正直なところみなさんの方が教員よりもこの言葉を理解しているでしょう。みなさんがプログラムから得た収穫について語るとき、一番出てくるのはどんな授業に出たかではなくて、ここでどんなに良い友人たちと出会うことができたかとか、ともにたくさんの事柄を経験できたとかいうような事です。一緒に博物館を回ったとか、観劇をして一杯やってといった自身の大学生活における出来事がこのプログラムとともに経験された、というような意見も場合によっては出てきます。このプログラムが創造していこうとするものこそ、そのような大学での生活なのです。私たち教員が事前に設けた何かしらの決まった計画だけでは決してないのです。個性が互いに集まりえて、多種多様な生活経験・社会経験を持ち寄り、みなさんは、そのなかで刺激を受けながら成長して、最終的に大学を離れるときには、真に活力を持った思想を社会へもたらしてくれる、それこそがよい大学のもつ最も価値ある一側面でしょう。

教員たちの世代とみなさんたちの世代の間には世界あるいは生活に対する感覚の大きな違いがあることかと思います。きわめて正常なことです。みなさんたちが絶対的に正しいとは限りませんし、教員にも絶対に問題がないとは言えません。ある程度の衝突と相互の理解は必要なことです。現在の状況は私が教員になりたてのころから比べても非常に違ってきています。いま私とみなさんたちにジェネレーションギャップがあるのはその通りです。けれどもこのプログラムができて、より多くみなさんと交流する機会を得て、みなさんの考え方を理解するようになったのは教員たちにとっても非常に意義あることだったのです。

Q:多くの学生たちは古典的名著を読むに際して、それらがどのようにして自身の生活へ価値・指針を与えてくれるのか非常に気になっているでしょうが、先生はいかにお考えでしょうか。

李猛:みなさんが本を読む時には、プラトンはああ言った、ルソーはこういった、そしてそれらが自身をとりまく生活を理解するにあたって有用になり得るかといったことへ非常に関心を持っていることでしょう。これは本来正常なことです。しかしおそらくはすぐに行き詰まってしまう。というのも彼らが言っていることと現実の間の差異はやはりきわめて大きいからです。それどころか本を読んでも本というものはすぐにはみなさんの生活における具体的な難しい決断へ何らの直接的な助けを与えてはくれないでしょう。またプラトンの時代はおそらくは私たちの時代と比べてみれば違っているわけです。経験や現実のレベルにおける距離にとどまらず、よりコアな原則においても食い違いがあるのです。

私はそれを非常に良いことだと思います。また非常に正常なことだとも思います。それによって私たちがそれらのテクストを改めて理解し直さなければならないこと、それらの古典が絶えず投げかける問題を理解することへ意識を向けてくれるからです。現実にあって私たち自身が持っている信念そのものに問題がある可能性も当然あるかもしれません。双方向的な問いかけなのですね。

もっともその過程にはある種の危険が潜んでいます。古典を読むことそのものから生まれる虚栄心です。すなわち、プラトンはすごい存在である。自分はプラトンを学んだ。ゆえに自分もすごいのである、というような。今学期に私たちは「『思想と社会』研究方法」という科目でウェーバーの『職業としての政治』を読みました。ウェーバーならば、こうした姿勢の背後にあるのは権力の追求なのだということでしょう。ウェーバーは、人はみな権力を求めようとするけれども、権力が持つ最大の危険というのは虚栄心であって、それこそが非常に大きな問題なのだというふうにとらえています。私は読書すること、学問することというのもまた同様だと考えています。読書するという行為に虚栄の要素はあるもので、正常なことである以上、そう身構える必要はありません。自分を支えるための小さな虚栄心ならば健康的なものです。けれども現実に対する生の感覚より虚栄心が勝り、世界に対する真の理解より虚栄心が勝り、真理そのものへのアプローチよりも虚栄心が勝ってしまえば、それは面倒なことになってしまいます。本を読むとはつまりそういう行為なのです。プラトンを読むとは彼のものの見方をそのまま記憶してしまうことではない。そうではなくて、プラトンがかつて考えた問題は、現在なお私たちが直面している根本的な問題であるとしっかり意識できるようになることなのです。本を読むというのは問いへの入り口です。生活における問題への答案ではありません。ウェーバーが偉大であり、プラトンが偉大であるのは、彼らがみなさんに男女平等であるとか、家庭の解消であるとか、哲人王であるとかそうしたプランを教えてくれるからではないのです。みなさんが政治について考えようとするならば、それに関した問題についていかに考えいかに行動するか意識を促してくれるからなのです。

本を読むとは何かを開くことであって何かを閉じることであってはならない。みなさんにはこのことを考えてほしいと思います。虚栄心を克服するためには開かれてあらなければならない。私が常々考えてきたことですが、教育とは人を開かせる方向に機能するものでなければならないのです。大学はそのキーとなる存在です。年齢を重ねるにつれだんだんに閉じていくというのは、これは仕方がない。大学における教育はみなさんを多くのものに対して開かせてくれます。「書を読むは生活へ立ち戻るために」というのは、読書を通じることによって、みなさんが生活に入っていく時に、もっと開かれた態度で、他人や自分のことをもっとよく理解できるようになり、そして、生活の中にはたくさんの可能性があると気づくようになるということなのです。最近、渠敬東先生がみなさんに向けて、複雑な生活へよりよく向き合えるようになれ、とメッセージを送っているでしょう。これはもちろん物事を単純化しろといっているわけではなく、その中にあるさまざまなものをいかにして体得するかを言っているわけですが、私はこれこそが本を読むということの意義であると考えています。「書を読むは生活へ立ち戻るために」という言葉は異なる解釈が可能です。もっとも私自身は、それは単なる古典の強調ではないというふうに理解しています。大学教育が古典を強調するというのは決して古典をドグマとしようとしているわけではなく、それどころかむしろ古典というものそれ自体がドグマの拒絶なのであると私は考えてきました。バッハはヨハン・ネポムク・フンメル(Johann Nepomnk Hummel, 1778-1837。オーストリアの音楽家)よりも多くの解釈の余地がります。バッハを演奏する可能性は、二流の作曲家のそれよりもはるかに多いわけです。しかしそれは彼のほうがもっと有名だからというわけではなく、彼自身が様々な可能性を与えたからなのです。古典も同じです。古典は実のところ非常に豊かで、示唆に満ちています。古典と生活の間の関係は問いに満ちた開かれたものなのです。

Q:「思想と社会」プログラム設置以来とりわけ実感されたことや感じた難しさなどおありでしたでしょうか。「思想と社会」プログラムは将来どのように発展していくことが可能であるとお考えでしょうか。

李猛:難しさということであれば、プログラムは既存の学部教育の制度の一部分で、なおかつその制度環境内にあったわけですから、例えば先生も学生もみな忙いというのは、プログラムが解決できることではなかったわけです。プログラム自身、学部教育の競争の中に置かれていました。私は「成績中心の学び」と呼んでいますが、プログラムもその影響をやはり受けました。私たちのプログラムは何とかそこに一定の空間を作ろうとしてきました。そもそもプログラム自体現在の体制が私たちに与えてくれた機会だったわけで、制度が自ら行おうとする調整・修正だったのです。しかしやはり巨大な枠組みの中での制約には直面せざるをえませんでした。

もちろん別の問題もありました。プログラムに入ってきた学生のみなさんはやはり相当に多様な期待・要望をもっていました。その多様な需要をいかに満たしていけばよいのか。私たちがプログラム設立の直後からあった問題意識として、たとえばみなさんの将来の方向性、それはみなさんがいつも頭を悩ませている問題だと思いますが、私たちもプログラムの設計時にやはり頭を悩ませていました。これも私たちが直面していた難しさの一つといえるでしょう。

かねてより私たちは課外活動での交流を増やすこと、そして学生のみなさんがより一層の自治を発揮できるようにと考えてきました。たとえばともに映画を見る、ともに絵画を鑑賞する、小説を論じ音楽を論じる、そうした文化的交流を学問と一つに結び付けたい、文化がある種の媒介物になるべきであると考えてきました。いかにすればそうした活動が根付いてある種の伝統を形成していけるのでしょうか。私たちはプログラムの先生方を招いて各人の研究について語ってもらうこともできますし、学生のみなさんは先生方へそこまで学問的ではないことを質問することもできます。先生たちがいかにして研究者となったのかというのはみなさんの年ごろにあってやはり気になる問題でしょうし、みなさんと同じように大学三年生だったころ先生たち各自が心中どのように考えていたのか知ることができるのです。教員の中には以前別の仕事をしていた人々もいますから、いかにして教員になることを決断したのか、それを知ることもできるわけです。

2.「思想と社会」プログラム、一般教養教育および専門課程教育
Q:先生は先ほど「思想と社会」プログラムの理念が必ずしも一般教養教育と一致しないと仰いましたが、その差異についてお話しいただけますでしょうか。

李猛:その通りで、完全に一致するわけではありません。一般教養教育とは万人に向けられたものです。一般教養教育が重視するのは大学教育のカリキュラム構成であり、教員学生間のインテラクションやキャンパス生態といったことは考慮の対象ではありません。また一般教養教育の授業においては思想をいかに経験された現実と結びつけるかといった問題は主な対象とはなりません。

ですから「思想と社会」プログラムが目的とするものは、一般教養教育よりもより小さく具体的なものです。

もちろん一般教養教育で行われていることのなかで、例えば比較的成功を収めている一般教養教育の授業と古典読解の授業の間には関連性があります。それらは本プログラムのやり方とある程度の近接性を持っています。しかしながら「思想と社会」プログラムは一般教養教育のプログラムではなく、やはりそれは専門化されたプログラムです。今学期の「『思想と社会』研究方法」の授業を見てもわかるように、その授業内容は全く一般教養的なものではなくかなり専門化された内容となっています。

Q:先生は近年の学部生向けプログラム立ち上げの傾向に対していかにお考えでしょうか。

李猛:背景にあるものは非常に似通っていると考えています。北京大学の学部教育においては各学部と教員による学際的な教育プログラムの試行が奨励されています。そしてそれらはいずれも非常によい試みとなっています。2016年より施行された学部教育制度は弾力性と開放性が高まっており、学生は科目選択においてより自由な選択の余地が持てるようになりました。各種のプログラムは学生のみなさんに一種のセットあるいはモジュールを提供するものであって、いってみればある種の学びのセットメニューのようなものです。つまり、みなさんの知的トレーニングに必要な栄養をバランスよくサポートし、みなさんの科目選択をサポートしているわけです。

Q:「思想と社会」プログラムのような学際プログラムと専門課程教育はどのような関係にあるのでしょうか。

李猛:中国の大学の過去20年間における最大の趨勢は専門化でした。専門化の要素がどんどん強くなってきています。この局面があればこそ一般教養教育を充実させる必要性や学際的な研究教育の模索が出てきているわけです。私が学生であったころは異なる学部の友人たち、経済学・歴史学・哲学いずれの専攻であろうと読む本は大体一緒でした。今のみなさんの場合まったく違ってしまっています。「思想と社会」プログラムにいる哲学専攻の学生と社会学専攻の学生とでは読んできたものが極めてかけ離れている。ほとんどが全く違うものになってしまっています。もしもこのプログラムの授業がなければそもそもお互いが読んでいる本を読むようなこともなかったでしょう。大学教育の角度から言うと、過去20年間、学生・教員・研究者のそれぞれが専門化を強めていこうとする努力を強く感じてきました。一般教養教育および学際的プログラムは専門化による欠点を補い、専門化によって生み出された溝を埋めようとするものです。あまりに早く専門課程に入ってしまうこと、早々にある限定された狭い専門領域に入り込んでしまうこと、それによって他の人々よりも早く成果を出すということも可能になるわけですが、しかしそうしたフライングスタートのようなやり方は、初等教育においてもそういうことが行われていますが、追随型の研究者を作ることに有利であるにすぎず、研究者たちが将来的により広がりのある問題を考えることや真に独創的な研究へ従事することを長期的に見れば妨げてしまうのです。才能も理想もある学生が専門化した研究へ移る前に、より大局を見通せるような視野と、学問と生活に対する十分な理解を持つようであらねばいけません。そうなってから一人の研究者となってこそより遠くまで歩みを進めることが可能になり、その生み出すものもきっとより価値を持つものになることでしょう。

もちろん、学部教育においてなされているこれらの努力は北京大学における専門的研究の賜物にほかなりません。一般教養教育のカリキュラム構築であれ、好評を博している学部学際プログラムであれ、そこで力を発揮しているのはやはり専門の力です。すなわち優秀な研究者と教育に情熱をもつ教員なのです。一般教養教育および学際学部プログラムはいずれも専門と対立しようというものではありません。一般教養教育の例をとれば、北京大学では各専門で最もすぐれた先生にお願いしてカリキュラムを組み立てています。別途一般教養部を立ち上げて、独自に教員を雇い入れることはしていません。学際プログラムの組み立てにあっても同様です。私たちは専門領域でハイレベルの研究者と同業者から支持されている先生をお招きしてプログラムの教員となっていただいています。そうでないと優秀な学生たちを引き付けるのは難しくなってしまうでしょう。こうした努力はもとより専門的研究における過度の分業によって生み出されてしまった視野狭窄と研究の陳腐化の問題を解決するためのものです。専門性という意味で最も重要な学者と言えばウェーバーですよね?では、はたして彼は経済学者か、法学者か、歴史学者か、それとも社会学者なのか、いずれでしょうか。彼の研究成果というものはこれらの領域をまたぐものでしたから、彼自身の立場も絶えず変化していたのです。

Q:学部教育においては人格陶冶が重要であると考える先生もおられます。この問題についてはいかがお考えでしょうか。

李猛:この問題については教員の中でもスタンスに違いがあります。教育なるものが知識に限られてあってはならない、単純な知識教育では不十分だと考える先生もおられます。一方で大学において人格に関する教育を行うのは実際的にきわめてむずかしいと考え、知識からの問いかけを通じて間接的に人間性にも影響を与えようと考えている先生も私たちの中には少なからずおられます。広い意味での知識の中でそうした問いに触れるということはあるでしょう。しかしそれはやはり知識です。私はおおむね両者の立場の中間にいます。私は人間性は非常に重要であると考えてはいますが、いわゆる人間性というのは人としての全体を表しているわけではないと思っています。大学教育がより多くかかわりうるのは知識と関連した人間性であると考えています。それはたとえば経験に対する感受性であり、真の問いを生み出すためのオリジナルの力、開かれた人格、自身の立場と相容れないもの、ひいては自身を不愉快にするような事実・立場と向き合おうとする気持ちをどうやって養うかということです。

私は渠敬東先生の意見に非常に賛同しています。こうした人格ができあがってくる背後には、何か別のものがきっとそれを支えているのだというのです。大学教育の全体がただ知識の伝達や、ひいては、知識の創造と生産ということだけを強調するようになってしまったり、どうやって専門家となって知的生産を行うのかということばかりに関心をそそぐようになってしまえば、多くの問題が生じてしまうでしょう。渠敬東先生も同じような批判をなさっていますが、私も全く同意見です。

とは言え、今日の大学が直面している多くの問題は、ウェーバーが官僚制について論じていた時代と変わっていません。そこには非常に根本的な傾向性があって、それを変えるのは簡単なことではないのです。そこにどうやって活性化のための「酵母」を加えていくのかということ、もしくは最も重要な部分においてブレーキをかける力を生み出していくことが、私たちがやるべきことだと思います。別の言い方をしてみましょう。「思想と社会」プログラムがもしも単に課外活動だけしかやらないとするなら、参加したいと思う学生はきっと何人もいないでしょう。まずは教育プロジェクトであるということ、第一義的に教育カリキュラムであるということが重要なのです。それと、授業の内外にあるコミュニティ、カリキュラムを結びつける既存の考え方の三者をどうやって統合するかということです。もちろんほんとうの意味で統合するというのは無理なことでしょう。それでも多少なりとも統合しようとすることは、まったくそれをやらない場合や、こうした問題に関心すら持たないこととはまったくちがうのです。

「思想と社会」プログラムは多分野/学際プログラムです。学際プログラムというのはやはり知識なわけですが、知識をまたぐ存在です。しかしどうして皆さんは、プログラムの中にたくさんの課外活動があることに興味を持っているのでしょうね? 授業内の事柄と授業外の生活は組み合わさって一つのダイアローグをなしています。相互に影響を与え合って新たなものを生み出す機能を果たしています。単に課外活動があるだけではたぶん不十分だと思うでしょう。プログラムが提供する課外活動はみなさんが参加しているサークルの活動よりずいぶん少ないだろうと思います。これらの活動は参加者の志がうまくかみ合って、柔軟な思考の友人たちと教員がともに参加することで活力が生まれます。そうなることが最も重要なのです。

Q:さきほどより繰り返し問題を発見する能力に言及しておられますが、それは私たちがテクストを読むにあたって切実に感じている難しいポイントでもあります。これについて何かアドバイスはおありでしょうか。

李猛:あらゆる知識の最も難しい点は、ほかでもなく、その中へいかに自分の問題を発見するか、思考を突き詰めていく空間をいかに発見するか、過去努力がなされたもののいまだ完全には解決されていない事柄を見つけ出すかです。みなさんがテクストを読むとき、文章中に何だかむずかしい、何だかしっくりこない、みなさんの社会や人生における経験と食い違うような部分をしばしば見出すことでしょう。そういった部分こそ問いが生まれうる場所なのです。つまりなぜみなさんにより多くの生活経験を持ってほしいと望むかというと、全く戸惑いを感じない人が多いのです。テクストと対話させうるような何らの生活経験を持っていないからです。そうした人からすれば、ホッブズが正しければルソーも正しい。カントに問題がないならばヘーゲルにも問題がない。ところがみなさんの多くにとってヘーゲルとカントが同時に正しいということはありえない。同じレベルにプラトンとアリストテレスを受け入れることはできないし、同じ風にはホッブズとルソーへ同意することもできないのです。それは生活経験からくる判断のゆえです。みなさんのたましいには一定の傾向性があるわけです。それがない人はあっさりとすべての思想を仲良く同居させてしまう。それはその人の生活経験・社会経験があまりに薄く単純なゆえに、経験をまるでしおりか何かのようにどんな本の中へもはさみこめてしまうのです。みなさんの中にある程度の思想や考え方を持つようになってこそ、過去の思想とぶつかり合えるようになるのです。

もう一つは、皆さんは真剣にテクスト・思想への向き合わなければならないということです。本を読むにあたって「この人がそう言うのだから」と多くの人は思ってしまう。これについては呉増定先生の言葉がその通りだと私はつねづね思っています。仮にある人のものを読むとして、例えばニーチェとしましょう。おそらくは彼のいう一語一句がみな正しいと思えるようになりたいとするでしょうが、そもそもそれらの言葉すべてが正しいとは思えないことに気づくはずなのです。そのとき皆さんは彼とあなたの生活経験や思想が衝突していることに気がつくことでしょう。これこそ問いの始まりです。本を読んで何らの問題を感じないというのは、その思想を真剣に扱えていないからです。だからこそ私は本当の意味で豊かな生活経験を持ち、歴史を理解し社会を理解し、それでようやくテクストとぶつかり合って対話ができるというふうに考えているのです。みなさん自身の持っている力が薄っぺらいものであったとしたならば、テクストが持っている力を見いだすこともできないでしょう。先のようなものがあってこそ、テクストに対する姿勢、それも真に意義をもった姿勢を持ち得るのであって、しかる後にテクストと思想との間の関係性が生まれ、自身の姿勢に変化が生まれるないしそのテクストに対して問いを投げ掛けるということが可能になる。さらにその後にテクストとの対話から自身が変わり、自身を高めるといったことが起こってくるのです。

ですから学問の方法、渠敬東先生がいうような人の育成、生活の問題、これらは同じ問題なのです。あまりに単調に過ごす者は、学問をしたとしても真に物事を見通すような問いを立てることはできないでしょう。どの世代の人々にも彼らなりの作品というものはありますし、それぞれなりの生活がありました。しかしいかなる時代であっても、薄っぺらな生活をする者というのは別の時代の事柄を理解しえないのです。そして他の時代から尊重され理解されるに足るだけのものを作り出すこともできないのです。私たちはすべての時代のものを同様に尊重して扱っているわけではありません。注意してみると、真に長く生き延びうる思想はそのほとんどが集中して表れています。ドイツ観念論の黄金時代はわずかに三十年から四十年の時間にすぎませんが、彼らのつくりだしたものはそれ以前の二、三百年において及びもつかないものでした。ギリシア文明におけるもっとも輝かしい成果は、ほとんどがアテナイの二世代ばかりの人々によって生み出され、今日に至るも私たちの精神生活を左右しています。これは実は偶然の産物ではないのです。人々みなの生きる環境と思想のぶつかり合いの生み出した光によって、彼らの問題意識が急激に照らし出されたゆえなのです。

より豊かな生活経験があってこそよりよく思想的な問いをとらえることができる。私たちが授業において取り扱うのはつまるところ技術的な問題でしかありません。もちろんそうしたトレーニングは必要不可欠なものです。構造的な方法をつかめば、つまりテクストには構造があり、記述には構造があり、思想の発展にも構造があるわけですが、すべての構造の成り立ちを理解したならば、それぞれの観念の間の位置関係も見えてくることでしょう。わたしたちは精読するということを真にマスターしなければなりません。つまり細かく読み込み、ゆっくり読み込み、テクストの起伏行間を読み取く。とくにわからないところは繰り返し読まなければなりません。しばしば偶然の原因、翻訳の誤りや誤解であったりはしますが、自らの一生をかけて悩むような問題に本当に出くわすこともあり得るのです。例えばウェーバー『宗教社会学論集』の導入第一段落目はほとんどの人が初めて読んで何とも違和感があると感じることでしょう。読むようになってしばらく時間がたつと、その違和感を感じなくなっていく。それは、慣れてしまい、麻痺してしまったからです。どんな思想でも最大の障害となるのは、ウェーバーのいうところの「日常化」です。慣れてしまうと何らの問題もないように思えてしまう。初めて経済学を勉強して需要供給曲線が出てくると、何だか変なものに感じるわけですが、時間がたてば非常に理にかなったものであるかのように思えてくる。信じて疑わなくなってしまう。ですから思想とはすなわち観念が信念に変わりゆくプロセスに抗うことなのです。新しいものを見い出してそれを活性化させなければならない。初めてそれに遭遇した時のような新鮮な感覚を与えなければならない。私たちが授業で教えているのはそうしたことの初歩的な作業です。皆さんはこれから長い時間をかけて、社会生活と歴史的な経験の中で自らの生活経験を豊かなものにすれば、みなさんは、もっと大きな力を獲得して読解や思考に入っていけるようになるでしょう。

教員略歴:

 

 

 

 

 

 

 

左:李猛氏近影/右:「思想と社会」プログラムロゴ

李猛(り・もう)、1971年生まれ、2008年シカゴ大卒。同大「社会思想コミッティ」よりPh.D授与。現職は北京大学哲学系教授、倫理学教室主任、元培学院院長、「思想と社会」プログラム教員。主たる研究領域は倫理学・政治哲学、古代ギリシア哲学、初期近代哲学。西洋政治哲学と道徳思想を研究しつつ、古代ギリシア哲学、初期近代哲学と近代社会理論にも携わる。現在テーマとしては、近代における政治形態、および道徳思想形成のメカニズムと歴史的文脈について。近代自然法論に関する体系的研究を通じて西洋社会が16-18世紀にかけ徐々に形成してきた国家主権・国際社会・財産関係・個人的権利といった基礎的概念の枠組みを整理しつつ、それを基盤に西洋における古典時代の政治と近代社会との根本的な差異、および中国伝統思想における関連問題への異なるアプローチについて比較を行っている。

翻訳:前野清太朗(EAA特任助教)

サイト内関連記事:
北京フォーラム2019分科会「”書院”中心の教養教育」での石井剛 EAA副院長の一問一答