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2020.07.07

第2回 石牟礼道子を読む会

7月6日(月)15時より、「石牟礼道子を読む会」の第二回がZoomにて開催された。当日の参加者は、本読書会の企画者である世界文学ユニットの髙山花子氏(EAA特任研究員)と本ブログ報告者の宇野瑞木(EAA特任研究員)、張政遠氏(東京大学)、鈴木将久氏(東京大学)、前島志保氏(東京大学)、そして宮田晃碩氏(東京大学大学院博士課程)の6名であった。

第二回にあたる今回は、髙山氏によって、『苦海浄土』第一部に関して、特に「音響」の描写に着目した発表が行われた。本読書会では、毎回、作品読解の助けになるサブテクストを紹介し、それを踏まえた上で担当者が読解を試みることになっている。今回、サブテクストとなったのは、ハーバード大学比較文学科の教授であるKaren Thornber氏の “Ishimure Michiko and Global Ecocriticism”(The Asia-Pacific Journal, Volume 14, Issue 13, Number 6, July, 2016, p. 1-23.)という論考であった。この論に導かれながら、髙山氏は、まず石牟礼作品の「世界文学」としての可能性と翻訳の難しさについて指摘した。Thornber氏によれば、石牟礼作品は、比較的早くから環境文学としてレイチェル・カーソンなどと並んで享受されてきたように、特定の文化や国を越えて世界文学として読まれ得る一方で、「小説」以外にも「詩」、「戯曲」、「随筆」と広がりを持つこともあり、その多くが翻訳されていないという問題があるという。この翻訳の難しさに関連して、髙山氏が着目したのは、石牟礼自身の俳句や短歌における「定型の崩れ」の傾向と、『綾蝶の記』(平凡社、2018年)で示された中世の『梁塵秘抄』などの歌謡や漁師の間で歌われる「歌/唄」への強い関心である。髙山氏は、石牟礼のこうした「声」の次元、いわば文字以前の次元に耳を澄ます姿勢も翻訳の不可能性に繋がっていると指摘した。これに対し、質疑においては、翻訳しにくい(され得ない)文学は世界文学となり得るのか、という根本的な問題提起がなされた。また石牟礼が白川静に傾倒し「文字」のなりたちにも強い関心を寄せた点について、石牟礼の中で、声/文字はどのように位置づけられていたのか、「文字を書く」ということをどのように考えていたのか、という問いが浮上した。

次に髙山氏は、Thornber氏の論で示された都市/田舎という構図と『天湖』の音響の描写の問題を踏まえ、『苦海浄土』における様々な音声・音響を抽出し分析した。具体的には、「自然音/人工音」、「うたの引用」、「水俣病患者の声」に分けて、テクストそのものが記憶を喚起する装置として働いている可能性を指摘した。さらに、証言しない人々の沈黙などにも読解を及ぼし、これらが渾然となった音響世界を舞台とした小説であると結論づけた。最後に、今後の展望として、発表者自身の専門であるモーリス・ブランショの文学論における叙事詩の問題、とりわけ「非人称的記憶」の視点からの石牟礼作品の読み解きの可能性を示唆した。

質疑応答においては、上記の議論の他に、都市/田舎の二項対立的な音響空間というよりも、むしろその「重ね合わせ」の技法によって地域だけに閉じない小説空間を生じさせている可能性が指摘された。これに関連して、患者の声が動物や機械に擬せられる医学的報告の引用と自ら語りだす「聞き書」部分が行ったり来たりする構造や、ラジオのようなメディアと土地の記憶を喚起する歌・唄の世界が重層的に現れる構造に注目することが重要であることも確認された。また小説の中で、「猫」の位置づけが他の動物と異なっているのではないかという興味深い視点が提示された。さらに「叙事詩」については、『平家物語』のような語りの文体についてなされるフォーミュラの多用、多声的構造における主体の曖昧化、声による集合的な記憶の喚起に関する議論が参考になるのではないか、という意見が寄せられた。

以上のように、『苦海浄土』の音響世界に着目することで、石牟礼文学の新しい読みの可能性に開かれた充実した発表であった。また今回は時間の関係上、十分に議論が展開されなかったが、髙山氏の資料には御詠歌や念仏の声も取り上げられており、前回の仏教的モチーフの問題とともに、水俣の地における仏教・信仰の問題も重要と思われた。今後さらに読書会を通じて理解を深めていきたい。

報告者:宇野瑞木(EAA特任研究員)