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2020.10.27

第9回 石牟礼道子を読む会

2020年10月26日(月)15:00よりZoom上にて第9回石牟礼道子を読む会が開催された。参加者は、鈴木将久氏(人文社会系研究科)、張政遠氏(総合文化研究科)、佐藤麻貴氏(東京大学連携研究機構ヒューマニティーズセンター)、髙山花子氏(EAA特任研究員)、宮田晃碩氏(総合文化研究科博士課程)、建部良平氏(EAAリサーチ・アシスタント)、そして報告者の宇野瑞木(EAA特任研究員)の7名であった。発表は佐藤麻貴氏が担当した。

今回は、『苦海浄土』第3部「天の魚」を読む第2回目にあたる。サブテクストは、以下の通りである。

 

・宇井純『公害原論』(亜紀書房、2006年)

・Jean-Luc Nancy, The Inoperative Community (1991) University of Minnesota Press

・山脇直司『公共哲学とは何か』(ちくま新書、2004年)

・環境省資料及び年表

 

今回の発表は、佐藤氏自身の専門とする環境哲学の立場から、石牟礼の「視点」に寄り添いつつも、その外側の水俣病や公害をめぐる研究の蓄積や環境省資料などの公的資料における理解を広く視野に収めた上で、改めて石牟礼のテクストの意味を問うものであった。

『水俣病の教訓と日本の水銀対策』(環境省環境保健部発行、2013年)

最初に、佐藤氏は、『苦海浄土』を読むにあたっての方針を以下の3点にまとめて示した。第一に『苦海浄土』に書かれたことをありのままに受け入れること、その上で第二に、あくまでも石牟礼の視点に立った患者のチッソとの闘争描写であるという点を踏まえて公的資料を含めて事実確認する必要があること、第三に、環境哲学の視点を導入しながら、石牟礼と患者の個別具体的関係や当時の特殊事情にもとづく『苦海浄土』から、いかに普遍的なものを導き出すことができるかが読解における目標であること、である。

以上の方針のもとに、佐藤氏が『苦海浄土』第三部において特に着目したのは、あらゆるレベルにおける分断・闘争そして階層化の様相が描き出されている点であった。すなわち、第一部においてはチッソ対患者という単純な二項対立構造であったのに対し、第三部に至ると、患者内部や患者を支える運動内部においても複雑な分断・対立が見られるようになる。また石牟礼の患者や運動内部の人々への筆致自体も屈折や距離感を見せるような側面が見られるという。

さらにこうした闘争・分断の構造が、そもそも命と尊厳という戻らないものへの憧憬に根差しており補償や金銭によって解決できるものではないこと、チッソ・医師・行政と患者との対話不可能性と利己主義による公の領域の消滅との関係、「悲しみや怒り」と「憐憫と共感」の違いといった問題を、テクストにそって提起していった。

佐藤氏はこのような救いのない人間のありように対し、キリスト教や仏教などの宗教にまつわるフレーズが挿入されることの意味を検討した上で、そうした宗教的真理やある明示的な理想・思想を共有するのとは別の「コミュニティ」の在り方としてジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』を参照した。佐藤氏によれば、「無為の共同体」とは、ある真理が崩れた時に、共にあって再定義をしていこうとする最中に現われ得るもので、対チッソのような思想を共有するのではない「共にある」という在り方と石牟礼の思い描く共同体との関わりを示唆した。

最後に、宇井純の『公害原論』(2006年)を参照しながら、公害問題の諸相と教訓、また原則として被害発生後に「原因究明→原因の判明→反論→中和」の起承転結の段階を踏むことなどが示された上で、佐藤氏自身の考える対処法が具体的に述べられた。それは公害をそもそも起こさないようにする予防策の徹底、情報の透明性の担保、公平な対処(公共空間の再構築)、幾種かの対話、善く生きるための知恵(カリタス、フィリア、ケア、仁)などであった。

 

質疑においては、ナンシーの「無為の共同体」の在り方において、コミュニケーションや対話が成立するためには、一つの理念などを共有しているのではなく分かたれていることが大事であり、それは石牟礼の求める共同体と通じる側面があるのではないか、という意見があった。さらに、そこで共有され得る「悲しみ」という契機(悲しみをはかるものさしはなく、ただ分かり合えないという悲しみは共有され得る)が石牟礼の分断的なテクストの特徴と響き合う点が見出された。

一方で、公害問題や環境問題といった知識が、石牟礼のテクストを読む行為を阻害する可能性も指摘された。これに関連して、対話をすることができない死者、或いは患者といった存在をどう考えるのか、という問題と石牟礼のテクストは関わっており、公的資料には掬い取られない物語が必要となる側面が改めて議論された。

また個別具体性から普遍性へと開く、という時の「普遍性」とは何か、という質問もあがった。これに対し、佐藤氏は具体的に実用可能な最善の解決を考えることであるとし、WhatからHowへのシフトを訴え、哲学や学問というものに携わる者としての在り方そのものを問う形で会は閉じられた。

今回、石牟礼の外部の水俣病や公害に関するコンテクストが提示されたことで、石牟礼のテクストの文体・思考と共に「漂浪(され)き」、「経巡る」ことでどのような経験に開かれるのか改めて考える契機を得たように思う。テクストを通じて、それぞれが分かたれながら共にあるという私たちの研究会の在り方についても、続けて考えていきたい。

 

報告者:宇野瑞木(EAA特任研究員)