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2019.11.08

EAAセミナー「『イスラーム世界への公開書簡』を読む」

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講師:アブデヌール・ビダール(フランス国民教育省・高等研究実習院)
司会・通訳:伊達聖伸(東京大学准教授)

10月16日(水)開催の国際シンポジウム「イスラーム世界を見る視線の交錯―日本とフランスの対話」に先立ち、本セミナーでは大学院地域文化研究専攻の伊達ゼミが中心となって『イスラーム世界への公開書簡』を読み解くことを試みた。今回はシンポジウムの登壇者であり、このテクストの著者であるビダール氏をお招きし、参加者の質問にお答えいただく形で理解を深めた。


冒頭、自己紹介を通し参加者の関心を共有した。その中で、早速ライシテについてコメントがあった。ビダール氏はイスラームの専門家としてフランスの統合高等評議会(HCI)でライシテの問題に取り組んだが、ライシテの問題を考える上では宗教的世界観の理解が欠かせないという。宗教と世俗を切り離されたものとして扱うのではなく、世俗が宗教から出てきたという連関の視点を持つことが重要だと考えるからだ。

続くセミナーの中では「イスラーム世界」「スピリチュアリティ」「ムハンマド・イクバール」の3つのキーワードが話題となった。

まず、本報告執筆者である中村拓人(総合文化研究科修士課程)から、ビダール氏が『公開書簡』の中で用いる「イスラーム世界 le monde musulman」という言葉の射程について質問をした。文中では明確な定義が与えられておらず、具体的に誰に対するメッセージなのかが曖昧であったからだ。イスラーム圏は中東を中心に、ヨーロッパにアジアにと世界中に分布するが、その全てを包括する意味で「イスラーム世界」と表現しているのか。また著者自身も対話相手であるこの「世界」の一員であると考えているのか。これらの関心からこの『書簡』の位置付けを問うた。
ビダール氏が「イスラーム世界」として想定しているのは、主に国家としての機構が直接的にせよ間接的にせよイスラームを参照している地域である。社会通念としてイスラームが根付いている地域であり、そこでは無宗教や無神論者であることが困難である。チュニジアの憲法学者ヤズ・ベナシュルの表現を借りれば「大衆の抗えない正統性」が働いている。その中にはトルコやイラン、チュニジアのように体制としては世俗的な形態をとっている国々も入る。もちろん、そうした社会とは異なる、フランス、あるいは日本におけるマイノリティとしてのムスリム、亡命者としてのムスリム、あるいは(実体を伴わない)信仰共同体としてのウンマといったものも想定しうる。しかし、ビダール氏はいずれにせよ本質主義的な見方には反対であり、また「イスラーム世界は普遍である」「イスラーム世界など存在しない」といった両極端の見方にも反対だという。
ここで、「イスラーム世界はどこか」というトピックに関連して伊達聖伸氏(総合文化研究科准教授)は、タリク・ラマダンがヨーロッパを「イスラームの家 Dar al-Islam」や「戦争の家 Dar al-Harb」ではなく「証言の家 Dar ash-Shahada」として見ることを提案したことについて、ビダール氏の見解を訪ねた。
ビダール氏は、ラマダンがイスラームへの批判的な再検討を免れようとする意図を持っていることを指摘しつつ、これを踏まえるとそのラマダンの提案には賛同できないとし、次のように述べた。今日ほとんどのイスラーム圏で、コーラン成立の過程や創設神話への批判的な検討は顧みられず、神への冒涜と見なされてしまう。例えば、ドイツの学者クリストフ・ルクセンブルクによるコーランの起源に関する言語的検討や、20世紀初頭に『イスラームと権力の基盤』を著したアリ=アブデラジックや今日のアブドゥ・フィラリ=アンサーリーの研究は、イスラーム圏の大学で参照することが許されない。しかし、ここで語られる創設神話は、権力の正統性を求める歴代のスルタンやカリフ、アミールが繰り返し用いることで浸透してきたものである。

次に、白尾安紗美氏(総合文化研究科修士課程)から、ビダール氏が論じるスピリチュアリティに関する発言があった。スピリチュアリティの意味、また高度に世俗化された社会においてそれがどのような意義を持ちうるのかを質問した。また白尾さんは、ジャン=ポール・ヴィレームがスピリチュアリティは民主主義のモラルの源泉であると述べていることにも言及しながら、ライシテの袋小路に入っている現在のフランス社会はスピリチュアリティを受け入れる準備はあるのか疑問を投げかけた。
ビダール氏は白尾氏の指摘が彼の仕事の核心に触れる重要な指摘であると答え、スピリチュアリティに関する両面的な批判をしていることを説明した。一方では、スピリチュアルなものが宗教のドグマ的な重みによって押しつぶされているということである。これについてビダール氏はサルトルの実存主義のような意味合いを取り入れたいという。他方では、超世俗化によってスピリチュアリティが阻害されているということである。ハンナ・アレントが分析するように人間は労働や消費によって阻害されており、スピリチュアリティを養ってくれるものがない。こうしたことから現代のスピリチュアリティは二重の袋小路状態に陥っているという問題意識を示した。
一般に宗教とスピリチュアリティは同一視されたり、宗教がスピリチュアリティを独占していると見なされがちだが、ビダール氏はスピリチュアリティは宗教から独立した異なるものであると考える。そこで、スピリチュアリティの定義が問題になる。ビダール氏は、個人あるいは社会が超越と個人的あるいは集合的な関係を結び、(現象学の用語でいえば)「生きられた」時に出来てくるものであるという。最近出版した『紡ぐ者たち Les Tisserands』において、スピリチュアリティとの絆を3つのタイプに整理している。第1に自己の内面にあり、自身に対して呼びかけてくるもの、自身を超えるものとの絆。第2に共感や助け合いなどを通した他者との絆。第3に自然や宇宙との絆である。

最後に、田中浩喜氏(人文社会系研究科博士課程)から、ムハンマド・イクバール(1877-1938)のアクチュアリティに関する質問があった。つまり、ビダール氏の研究対象であるイクバールの思想と現代の状況にどのような連続性があるのかということについてだ。ビダール氏は『神の死に直面するイスラーム』を出版している(『ムハンマド・イクバールのスピリチュアルなイスラーム』の書名で再版)。
イクバールは20世紀前半、ジンナーらと共に全インド・ムスリム連盟を率いパキスタン独立に貢献した人物である。彼は、英国支配下のインドにおけるムスリムという二重のマイノリティであったアジア的なムスリムが、知的、道徳的なバイタリティを失ってしまったことを論じた。
ビダール氏の考えでは、イクバールが提出した問いは継続している。それは、イスラーム世界が自身に固有の近代の道を見つけていないということである。これまで西洋に直面する反応は二つある。一方では、パン・アラブ主義に見られるような世俗的な西洋への追従的な模倣である。世俗化を掲げつつも権威主義的な体制であることは、固有の道を見つけることができない無力さの表明である。他方では、宗教への回帰という動きがある。1979年の革命を経たイラン・イスラーム共和国や、また今日であればイスラーム国もその例といえる。こうした状況に照らすと、イスラームがいかに固有の道を見つけることができるかという問いはアクチュアリティを保っている。ビダール氏自身は既にイクバールが開いてくれた道筋に倣うという立場である。

以上、約1時間半という限られた時間であったが、充実した議論がなされ、ビダール氏の主張やテクストに対する理解が深まった。

中村拓人(東京大学大学院修士課程)