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2019.05.24

2019 Sセメスター 第5回学術フロンティア講義

2019年5月10日、第五回学術フロンティア講義が行われた。今回は、藤原帰一氏(法学政治学研究科教授)が講義を担当された。講義の冒頭では、靖国問題や従軍慰安婦問題、あるいは南京事件といった具体的な事柄から歴史問題に触れつつ、現在の問題ではなくとも、過去に対する判断が政治指導者の評価につながること、さらには指導者にとどまらず、国民も深く関わる問題になることが指摘された。そこで藤原氏は、「なぜそれが問題になるのか?」という問いから出発し、歴史が現在の争点となるに至った背景を、いかに解きほぐすかが課題になると述べた。

次に藤原氏は、戦争を誰がどう記憶するのか、という問いを提示した。特に、「共有されたお話」(としての「記憶」)として、博物館の展示の例がとりあげられた。まず、広島平和記念資料館を挙げ、そこでは、原爆の被害を受けた一般市民が主に展示されており、軍の経験がほとんど取り上げられていないことが指摘された。核廃絶のアピールという普遍性と、日本人のシビリアンへの視点の集中という特殊性が同居し、その結果、戦争責任の問題は外されていると、藤原氏は指摘した。続いてワシントンD.C.のホロコースト博物館の事例が紹介された。そこでは「戦争はいけない!」という話がなされているわけでは全くなく、連合国と交戦状態に入る前からユダヤ人の迫害をしていたナチスに対し、もっと早く戦争を始めるべきだったというメッセージが発せられていると、藤原氏は述べた。そこではむしろ、「戦争責任」ではなく、「戦争を闘う責任」こそが問われていて、戦争の意味付けが広島とはまるで異なっている。さらに、スミソニアン博物館における、エノラゲイの展示について、言及された。この展示をめぐっては、日米の距離以上に、専門家と一般大衆のギャップにたじろぐアメリカの専門家の姿が印象的だったと藤原氏は述べた。というのも、専門家により用意されていた客観性の高い展示企画に対し、メディアの報道を通じて、原爆投下が悪であるかのような展示だとの批判が集まったからである。

続いて問われたのは、「歴史とは記憶なのか?」という問題である。史料に基づいてそれを解読し解釈をするのが歴史ではないか。記憶などという曖昧なものは歴史の対象にはならないのではないか。このような見解に対して藤原氏は、次のように応答を試みた。まず、書かれた史料によって解釈できる歴史は歴史の一部に過ぎない。歴史の中には、記憶し、記憶されたと当事者が考えるものそれ自体が含まれており、これら全体が記憶の一部になる。自分たちの過去がどのようなものなのかを再現する際、必ずしも史料によらず、語り伝えられたものによって表現された要素が入ってくる。

また藤原氏は、何を語るべきかを学者が方法論でもって決めることができるか、という問いを投げかけた。学者の特権性を措定した時点で、下から立ち上げられる「われわれの歴史」という立場から反撃を受けることになるとされ、講壇史学と共同体的な歴史(ナラティブヒストリー)との相克を指摘した。

さらに、語られる記憶と語られない記憶があること、公的な記憶と私的な記憶との間の隔たり、語りたくても共有されない記憶の存在についても言及された。

戦争の記憶においては、犠牲者になったという経験が共有されやすく、またこうした経験は「われわれ」という意識と結びつきやすいとされた。南京事件はチャイニーズの犠牲の物語であり、慰安婦問題はコリアンの犠牲の物語であり、広島はジャパニーズシビリアンの犠牲の物語であって、そのことに敏感でない場合に、なぜ犠牲に気付かないのかという公憤が生じるとされた。また、南京事件については、南京の犠牲が長らく北京から無視されてきたことにも後ほど触れられた。中国政府における南京事件の扱いは、中華人民共和国の機軸がマルクス・レーニン主義からナショナリズムへと傾斜していく中で変化していったことが指摘された。

では、「われわれ」という意識とネイションが重なり合うのはなぜか。藤原氏によれば、それは、戦争が国家を単位に生じ、ナショナルな動員が行われるからだ。また、戦争を伝える主体としての政府の役割がある。しかし、必ずしも国家の語りだけに収束するわけではない。南京事件を例に挙げれば、ネイションの要請と、より一般的な概念が重なっている。救国、国防というネイションの要請と、こんな侵略があってはいけない、日本軍国主義、いやおよそ軍国主義の台頭を許してはいけないというナショナルを超えた普遍的な側面との混淆がある。

日本における戦争の記憶として、広島の物語を挙げられた。そこでは、外国が敵であったという状況から、戦後、国家と社会の分離を通じて、自国の政府が他者化された。そして、「われわれ」という形で、軍、官僚を除いた犠牲者としての日本国民という意識が形成されることになった。戦後、兵士を描く多くの物語が現れるが、それらは、「一億火の玉」に回収されない、自己・自分・個人としての経験を表現しようとしてきた。しかし、このような個人に注目するだけでは、共通の経験に根ざした社会が立ち上がらず、共同性を形づくる「われわれ」という図式が必要になるとされた。

靖国神社について、そこに何度も参拝する遺族がいるが、それは近親者の死に意味を与えてもらえるからだとされ、それを遺族が求めることは理解できるとされた。そして、これこそがナショナリズムが市民宗教として働いているということであると強調された。死に意味を与えるのは本来宗教の役割であるのだから。そうして、このようなナショナリズムが国境を越えて出会えば、大変なことになることは理解されようとされた。

最後に、「戦争の何を記憶するのか」という問いが提示された。これに対し、藤原氏は次のように主張した。戦争の記憶をrevision するためには国境を越えざるをえない。ここでrevisionとは、不都合な記憶を抹殺する歴史修正主義とは異なる。必要とされているのは、国境を越えて戦争を語る姿勢であり、このためにrevisionが必要とされる。これが実現できなければ学者という存在に意味があるだろうか、という力のこもったメッセージが発せられた。

討論では、いくつもの質問があがったが、これらの遣り取りの中で藤原氏が言及した、印象的なエピソードで本報告を締めくくりたい。かつて藤原氏は、広島での会議で、広島の立場を相対化するために外国から人を呼ぼうと提案した。実際に、重慶からの参加者の招聘が実現した。彼は会議で次のように述べたという。日本軍の空爆を受けた街の者として、広島のことは他人事とは思えない。しかし、それならば、なぜ広島の人は重慶に来てくれないのか。その後これに感銘を受けた広島市長が、重慶を訪問した。このエピソードから、藤原氏は、国境の外との戦いだけが現実だという悪しき現実主義に陥らず、国境の中での語りがその外でも共有できるのではないかという気付きこそが重要であると説き、講義は終了した。

報告者:高原智史

学生からのコメントペーパー

講義の中で、語られない記憶や私的経験ということを仰っており、目を覚まされました。確かに現時点で文献として世に出ているものは語られる記憶や公的な記憶であり、世の中には語られず、胸の内に秘められている記憶も多くあり、それらも触れるべき記憶の一部であるかもしれません。経験していない、できなかったような事実、出来事を公平に認識することは非常に難しいが、かといって政府などのほかの力に突き動かされるのではなく、学びの姿勢を持つべきだと思いました。とくに、国境を超えて戦争を理解するという姿勢は今後失ってはいけないと思いました。(文Ⅰ・2年)

質疑応答で出てきた疑問とも似ているが、私はある歴史的問題を考える際、様々な本を読んで様々な主張を知った結果、自分なりの主張をもつことができず、中立的な立場をとってしまうことがよくある。藤原先生は講義の中で慰安婦や個人としての戦争責任の有無に対して自分なりの確固たる主張を持っていらっしゃったので、強いうらやましさを感じた。この大学生活で、論文を疑い、調べ、さらに理解を深めていく能力を身に付けたいと思った。(文Ⅰ・1年)

私は小学校2年生から5年生の間、広島の中区で過ごした。(中略)そんな環境に身を置いていたため、アメリカの人々の原爆に対する姿勢にはいつも憤りを感じていたし、広島について、戦争について周囲の人よりも理解しているという自負もあった。一方で、従軍慰安婦の問題について訴える韓国の人々を冷ややかに見つめた自分もいた。今日の講義を通じ、自らの浅はかさと戦争教育における「洗脳」の危険性について思いをめぐらせずにはいられなかった。フラットに、多角的な視野をっと言うのは簡単だが、実際には手間を惜しんで、なんとなくの理解で済ませてしまっていることが多い私であるが、30年後の世界において、そのような「知」を活かすことが果たしてできるのか、自らに問わなければならないだろう。(文Ⅲ・1年)

過去の罪そのものをなかったことにしようとしたり、中国や韓国に対して否定的な態度をとったりするのは誤りだと思う。(中略)もっと戦時中の中国や韓国に起きた惨状を知り、自身を客観視できるようになるべきだと思う。謝罪はそこから後での問題だと思う。(文Ⅰ・1年)

自分たちの経験が、自分たちのものだけではないかもしれない、国境の中だけで共有されるものでもないかもしれないという重慶の方のお話を聞き、自分も日本の広島や長崎だけではない重慶やその他多くの戦争経験地(日本の侵攻を受けた地ももちろん含めて)を訪れ、その気づきをするべきだと感じた。(文Ⅲ・2年)