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2019.06.29

2019 Sセメスター 第10回学術フロンティア講義

2019年6月21日、第10回学術フロンティア講義が行われた。今回は高田康成氏(東京大学名誉教授、名古屋外国語大学現代国際学部教授)が、「文化と歴史の基軸について」とのテーマで講義を行った。

近年、文化相対主義の普及で、各文化は平等同質だという考え方が受け入れられていると高田氏は指摘した。ただし、それぞれの文化にはその特徴を支える「基軸」(バックボーン)が存在していると考えられる。そこで高田氏は、アメリカの哲学者、東洋学者トマス・カスリス(Thomas Kasulis)氏の著書Intimacy or Integrity: Philosophy and Cultural Difference(Honolulu: University of Hawaii Press, 2002. 日本語訳は高田康成解説・衣笠正晃訳『インティマシーあるいはインテグリティー』法政大学出版局、2016年)における二つの文化的指向性と、その延長線上で日本哲学史を展開したEngaging Japanese Philosophy: A Short History(Honolulu: University of Hawaii Press, 2018)に基づいて、その要点を紹介した。カスリス氏によれば、空海の真言密教に代表される日本文化はインティマシー(intimacy)の方で、キリスト教に代表される西欧文化はインテグリティー(integrity)の典型である。

もし人間を円型(あるいは球体)にたとえて考えると、インティマシーの場合、丸と丸が重なり、その重なる部分は関係性(R、relationship)になる。恋愛関係を想像してみればすぐわかるように、もし二人が別れたらそれぞれ何か欠けたような感じを抱く、そういう関係性である。これは内的関係性と理解しても良い。インテグリティーだと、丸と丸との重なりがない前提で関係が成立する。すなわち、関係性(R)は超越した第三者(例えば法的・社会的)によって規定され、外部に成立する。これをあえて歴史的に見るならば契約関係と底通すると説く。したがって、インテグリティーは分離的(detached)で、第三者の検証が必要である。これに対してインティマシーは近接的(engaged)で、職人精神のような、当の本人(たち)にしかわからないものがある。これら二つの指向性は、二者択一的な特質をもつが、実際には一つの文化に併存するものであり、どちらの指向性が強いか弱いかということが問題である、とカスリス氏は強調する。歴史的経緯により、日本的文化は超インティマシー文化であり、アメリカ的文化は超インテグリティーの様相を呈している。

次に、インティマシーについて、より詳細な検討が行われた。最澄と空海がほぼ同時に、中国より顕教と真言密教を日本にもたらしたが、インティマシーの強い密教(Intimacy engaged knowing)は日本的思想の基軸になった。密教は身(身体)、口(言語)、意(意識)で世界を認識する。その宇宙観に関しては、まず物質的な世界(Macrocosmic)があり、そこは四大元素(土水風火)と空間と感覚認識(識)からなる。そして瞑想によって、更なる秘密の世界(Microcosmic)に入り込み、主客の分別をなくし、全宇宙が繋がっていることが体得される。六道(天道、人間道、畜生道など)のどちらからでもたどり着ける境地であり、ここでは個人が他者と一体化して全宇宙と響き合う。図式化すれば、大きな丸の中に無数の小さい丸が相重なって並んでいる状態であり、これは「外部」と「内部」との区分がない、超越のない内在的世界全体そのものを表している。

西欧的宇宙観はこれとは異なる。西欧的心性の構造を今なお支えていると思われる天動説に基づく宇宙観では、地面から月の軌道以下の範囲(sublunary sphere)は四大元素(土水気火)から構成され無常が支配するが、月の軌道以上は第五元素・エーテルからなり恒常のうちに天使が住む。宇宙の最果てには不動点(firmamentum)があり、そのいわば外にはすべての創造主・神の領域になる。このように創造主と被造物が隔てられ、神の超越性が見える。内在性にたいして超越的他者性が顕著である。

続いて高田氏は、インテグリティーと西欧的思想の基軸であるキリスト教について言及した。高田氏は坂口ふみ『信の構造――キリスト教の愛の教理とそのゆくえ』(岩波書店、2008年)の議論を踏まえて、「三位一体論」においては、父と子(キリスト)と聖霊とは一つの実体(ousia)である一方、子であるキリストは、一つの基体(hupostasis=persona)と二つの本質(natura)(神的ならびに人間的)からなるという構造をもつことを紹介した。西欧中世キリスト教神学は、personaを理性的特性をもった個的実体と規定してゆく方向性が見られる。中世末のダンテの『神曲』にも、あるいは近代初期のミルトンの『失楽園』などの文学作品にも、個に基づいて超越性へと向かうという指向性は変わらず強固だった。

最後に、近代日本における基軸問題が取り上げられた。丸山真男が「布筒」(『日本の思想』1961年)として批判したように、神道には「基軸の欠如、諸思想の雑然たる同居化、構造化されない時間」といった特徴が見られる。しかし、開国当時東アジアで唯一列強に侵略されていなかった日本において、近代的国家を築くためには、何かの基軸がなければならないと指導者たちは考えた。伊藤博文は、これを天皇制として設定した。神道の伝統を受け継ぐ天皇制は、「国体」の基軸として威力を発揮することになり、その体制下においては、天皇制に対するいかなる批判もほとんど不可能となった。しかし、丸山が述べたように、ポツダム宣言受諾に際して、「国体」が何であるかについて概念的規定と合意がなかったことが露呈し、最終的に「聖断」に頼るしかなかったこと、さらに軍部は、「聖断」を受け入れるべきとする一派と、これに反対する一派とに分裂するという有様であった。このことからも、天皇制というイデオロギーの本質が、密教的インティマシーの指向性に彩られたものであることがわかる。

講義の最後に高田氏は、歴史と文化を相対主義の視点で見ることは、重要な問題の解決には繋がらないこと、それぞれの歴史と文化には基軸があることを再び強調した。新たな世界史を構想するのであれば、その差異性から出発しなければならないとし、今回の講義は閉じられた。

報告者:胡藤(EAAリサーチ・アシスタント)
写真撮影:立石はな(EAA特任研究員)

 

学生からのコメントペーパー

今回の講義では、西欧において、超越的な存在としての神と個人のつながり、インテグリティへの発展のかたちについて興味を持ちました。(中略)その上で、上のような自由主義、個人主義的な憲法を頂点にあるいは根底に作られた日本社会のハード面のインテグリティ的性格と、国民の性質の大部分を占めるインティマシー的性格の対立もしくは融合(融合はないとの話でしたが)が、今後、30年後さらにその後にどのような形で進んでいくのかという疑問を興味と危惧とともに抱きました。(文Ⅰ・2年)

この東アジア学の講義で何度も感じていることですが、先生が「仏教用語は先入観のある漢字で表記された日本語ではなく、英語で理解した方がよい」と仰ったのを聞き、「教養」というものの価値を感じた気がしました。言語を学ぶことは単にコミュニケーションのツールを手に入れることではない、考えるプラットフォームを増やすことなのだと改めて実感できました。(文Ⅲ・2年)

戦後、天皇崇拝が薄れた現在も、Intimacyが根深く残存しているのは何とも皮肉なものだと思う。グローバリズムの進む時代においては、IntimacyからIntegrityへの移行が必要なのだろうか。(文Ⅰ・2年)

インテグリティとインティマシィの対立に関する考えにおいて、他の議論でよく見られる「東洋が西洋に劣っている」というイメージが持ち出されていないのには興味を感じた。(文Ⅰ・1年)