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2020.11.19

【活動報告】「Look東大・EAAデー」第3回参加記

 11月13日(金)午後1時から、ダイキンとのコラボレーション企画「Look東大・EAAデー」の第3回が行われました。今回は英文学がご専門の武田将明さんが登壇し、ご自身が翻訳なさったダニエル・デフォーの『ペストの記憶』を題材にしたセミナーとなりました。この作品については武田さんが指南役となってNHKの「100分de名著」(Eテレ)でも取り上げられましたのでご存じの方も多いだろうと思います。
 300ページを超えるこの物語を全篇読み通すのは、日ごろからお仕事や家事などでお忙しく過ごされている社会人の方々にとって容易なことではないでしょう。しかし、最初から最後まで読み通すことだけが作品を味わう唯一の方法ではないはずです。人生がそうであるのと同じように、読書という体験においてもシーンごとに心の持ちように波があるのは自然なことですし、そもそも自覚できるような明確な始まりと終わりは必要不可欠ではないのかも知れません。ともかく、参加者は事前に74ページから79ページという全体から見ればほんのごくわずかな部分を読んでおくことがいちおう推奨されていました。
 これまで2回と同様、オンライン形式で行われる武田さんの授業は、三つの問いから始まりました。

Q1 「ぼく」は何度も危険を顧みずに死者を埋葬する穴を見に行きますが、その理由は?
Q2 夜の墓地に入った後(p.78-)のできごとは、誰の視点で書かれているでしょうか。
Q3 埋葬の実態を暴くことで、作者は何を訴えたかったのでしょうか。

 これらの問いは、例えば受験で問われるようなものとはちがい、読者一人一人にそれぞれちがった答えがあり得るものばかりです。これまでの2回はブレイクアウト・セッションを設けてグループごとに議論したのですが、今回はGoogleスプレッドシートを用いて、全員が自分の回答を表上に記入するやりかたが取られました。クラウドで共有されているシートに皆が書きこむのですから、誰かが書きこんでいるようすが手に取るようにわかり、どんどんセルが埋まっていきました。そうして散りばめられた答えを武田さんが拾いながらコメントしていきます。「なるほどねえ」、「そうか、こういう見方もあるんですねえ」と、武田さんは穏やかな口調で肯きながら、気になった回答については直接回答者と議論し、皆さんが寄せた思い思いの感想に目を通していきます。そして、作品の背景や作者の生涯や時代に関する解説をはさみ、また同じように問いが提供され、いくつかの答えをとりあげながら時に回答者と会話を交えつつ、予定されていた90分の時間はゆったりと、しかし、あっという間に過ぎていきました。
 「ことばを通じて人と触れ合う」という統一テーマのもとで開催された3回のうち、過去2回において用いられた「ことば」はいずれも口から吐き出される音声を伴った話しことばでした。一方、今回はスプレッドシート方式(武田さんのすばらしいご発案!)ですから、皆さんはいったん「書きことば」で自分の考えを表現しました。その結果、やはり使われることばにも「話しことば」とは異なる特徴が出てきたと思います。例えば、Q2の「誰の視点」という問いです。テキストは「ぼく」という語り手が語っているのですが、時々、「ぼく」が目撃してはいないはずの事実が具体的に記されているところが出てきます。そうすると、いったい「真の語り手」はいったい何者なのだろうという問いが浮かんでくるのですが、これに対する答えの中には「神?の視点」というようなものもありました。こんなことはなかなか話しことばでは口に出しにくい表現ですね。「神」などと口走るのはどこか照れくさく、むずがゆい感じがします。「書く」というのは不思議な行為です。「話す」という行為に比べて、ちょっと身体から距離をおいた感じがありますね。そこで思わず書き出されることばは、必ずしも自分が頭の中で曖昧に考えていたものとは同じでないかも知れません。もしかすると、書くことでことばは身体から引き剥がされ、そこで初めて、自分の考えは明確なかたちを持つのかも知れません。そう考えると、書いて記録することは、ただ見たことや聞いたことをそのまま表現するという行為ではないかも知れませんね。
 さて、指定テキストで語られていたことの焦点は、紛れもなく「死者を埋葬する穴」でした。「巨大な穴」という小見出しがその中につけられています。急増する死体が感染源になることを防ぐためにロンドン市内には死者を埋葬する穴がいくつもつくられたのです。なかでも「ぼく」が見に行ったのは、本当に巨大なものです。テキストはこう記しています。

この目で判断したかぎりでは、長方形の穴の全長は約40フィート[約12.2メートル]、幅の方は約15から16フィート[約4.6から4.9メートル]あった。また最初に見物したときには、約9フィート[約2.7メートル]の深さだった。しかしどうやら、あとでその一画を20フィート[約6.1メートル]の深さまで掘り進めたという話だった。(74ページ)

 それはいかにも「おぞましい穴」であったと「ぼく」は振り返っています。なぜなら、まともに葬儀もできないままに運び込まれ、棺桶に入れられることもなくただ無造作に打ち棄てられる大量の死体だけではなく、死期を悟った感染者が自らそこに飛び込んでいくことさえあったというからです。
 武田さんは周到な訳者で、この「巨大な穴」には訳注を添えています。そして、そこに示されるのは、何とこの穴がつくられた墓地のある教会は、ほかでもないデフォー自身が結婚式を挙げた教会だったという、衝撃の事実です。このことを皆さんはどう思われるでしょうか?忌まわしい災害を記憶することの尊さをわたしたちはこの授業を通じて痛感しました。この教会はきっと地元の人びとにとって大切な信仰の場所として時代を超えて存在しているのでしょう。かつて起こった災害、そしてここで繰り広げられた「おぞましい」現実は、忘却されて結婚式会場になったということなのでしょうか?では、忘却に抗って記憶することにはいったいどれほどの価値があるのでしょうか?
 ペストの恐怖が過ぎ去り、人びとが神に感謝を捧げていたことに言及したこの作品の末尾で、語り手はこうも述べています。

一般市民については、エジプトに囚われていたユダヤの民に関する次の言葉が、あまりにぴったり当てはまることも、認めなければならない。すなわち、エジプトの王(ファラオ)から救い出されたのち、ユダヤ人たちは奇蹟で干上がった紅海を渡ったが、ふと振り返ると、エジプト人たちが海に呑まれるのが見えた。そのとき「彼らは賛美の歌をうたった」が、「たちまち御業を忘れ去」ったという。(318ページ)

 いかがでしょうか。災害の記憶はいつも忘却と背中合わせです。それをいったいわたしたちはどのようにとらえるべきでしょうか。
 いまのわたしたちを取り巻いているこのCOVID-19の大流行もきっとやがては消え去っていくでしょう。そのとき、わたしたちは見えないウイルスがもたらす脅威から解放されたことを心から喜び合いたいものです。その時、わたしたちはどのように記憶し、何を忘却しているでしょうか。それはおそらくわたしたちが考えるべき長い課題になることでしょう。

【追記】
 さて、この「Look東大・EAAデー」は皆さまの熱意あるご参加を得てたいへん充実した企画となりました。誠に幸いなことに、「その感覚を忘却しないうちに」、ということでラップアップ・セッションを追加していただけることになりました。企画の準備と運営に奔走されているダイキン工業の松村さんを初めとする関係者の皆さまに深く感謝いたします。これまでの3回にご出席くださった方々から一人でも多くの方とまた近日お目にかかれるであろうことを心待ちにしております。

報告:石井剛(EAA副院長)

Googleスプレッドシートをクラウド上で共有して答えをどんどん記入していきます。