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2021.04.23

【報告】「石牟礼道子を読む会」第15回:〈合評会〉『石牟礼道子を読む――世界をひらく/されく』

4月17日(土)13時から、EAAセミナールームでの対面とZoomを併用したハイブリッド方式にて、石牟礼道子を読む会の第15回として、この3月にEAAブックレットとして刊行された『石牟礼道子を読む――世界をひらく/漂流(されく』の合評会が開催された。参加者は、ブックレットの執筆者である宮本久雄氏(東京純心大学看護学部)、張政遠氏(東京大学)、山田悠介氏(大東文化大学)、建部良平氏(東京大学大学院博士課程)、宮田晃碩氏(EAAリサーチアシスタント)、佐藤麻貴氏(EAA特任准教授)、髙山花子(EAA特任助教)、報告者の宇野瑞木(EAA特任研究員)に加え、読書会のメンバーの鈴木将久氏(東京大学)、石井剛氏(EAA副院長)、田中雄大氏(東京大学大学院博士課程)、さらに今学期授業で『苦海浄土』を読むという伊達聖伸氏(東京大学)の10名であった。

 

 

このブックレットは、昨年度に2回に分けて行われたオンラインワークショップの内容をまとめた論文集である。まさにコロナという思わぬ事態の中で、過去の災厄に人々がどのように向き合ったのかを学ぶために何か文学作品をめないか、ということで考えたのが、石牟礼道子を読むということであった。今回、昨年6月以来、このコロナ禍の中で、ずっとオンラインで開催してきた読書会において、今年度最初の今回一部オンラインであったが、はじめて対面での開催という形をもてた会でもあった。

 

 

まず、編者の一人である宇野から「合評会」の趣旨が述べられた後、もう一人の編者である髙山より宮本氏に、昨年度の和辻哲郎文化賞を受賞した『パウロの神秘論——他者との相生の地平をひらく(東京大学出版会、2019年)の紹介とともにお祝いの言葉が捧げられた。その後、順番に、それぞれブックレットの全体や各論についての感想を述べていき、共有していく形となった。

初めに、張政遠氏より自身の「道」をめぐる哲学的実践の取り組みについて説明があり、改めて福島の現状の語りといったものに耳を傾けることの重要性が強調され、この夏に山田徹監督のドキュメンタリー映画『新地町の漁師たち』2016年)を上映することが述べられた。

 


張政遠氏

 

続いて、髙山は、自身の関心の在り処である「声」と「歌」の問題を改めて振り返り、また各論について、改めて一冊の本として通読して感じたコメント述べていった。張氏の泥道や、山田氏の草木というテーマ、さらには宮本氏の自分の足で歩く巡礼というテーマにリンクするものとして、宮本氏が編者を務めた『シリーズ物語り論 第3巻 彼方からの声』(東京大学出版会、2007年)に再録された石牟礼と金泰昌氏との対談の中で、石牟礼が一本の草であるようなときに幸福を感じていると述べられていることが、今後、自然や草花のテーマを深めるために鍵になるのではないか、と指摘された。

 

 髙山花子氏

 

山田氏からは、参考文献の多様さが際立った一冊となっている点が指摘され、異なるフィールドの執筆者が響き合いながらも、異なるバックボーンから論じていること、その豊かさへの気づきがあったことが述べられた。そして、人と人のコミュニケーションと共に、植物とのコミュニケーションが重要で、今後、草と木、そして花という位相の違いも含めて考えていく構想が示された。さらに許しの問題もこれからの課題として言及された。

 

 山田悠介氏

 

報告者である宇野は、自身の説話研究という専門性が現実世界と乖離しているという感覚を抱きがちであったが、石牟礼を読む中で、その伝承、語りの次元というものの面白さや意味を改めて確信できる機会となったこと述べた。また、文学研究者は作品を論じるのは当たり前と考えてしまうのであるが、哲学者は石牟礼の言葉をどのように受け、さらにどのように言葉を発するのか、という自身の態度から問い直す作業を常にしている、という点に深い示唆を受けたと語り、各論への感想を述べていった

 

 宇野瑞木

 

宮本氏のコメントは、もう一つの講演をいただいたかのような濃密な話であった。特に、石牟礼の『水はみどろの宮』における阿蘇山の噴火と大地震の描写、後の熊本の大地震を予言するものであったとし、石牟礼が入居していた施設も被害を受け、別の場所に移る中で、石牟礼がかなり体調を崩したことにも言及され点は示唆的であった。その上で、様々な災害、東日本大震災、熊本大地震、そして今のコロナの状況も含めた災害が、石牟礼がみた芭蕉の「山路きてやらゆかしすみれ草」という俳句にもあるように、道端の「一本の花」を念ずることに集約しているのではないか、と述べられた。そして、この会に対して、石牟礼の文学、言葉を受け止めて、現代の災害の状況を考えていくこと、もっと世界に広めていくことへの願いが託された。

 

 宮本久雄氏

 

宮田氏は、言語の隔たりということを自身の問題に引き付けて改めて語り、こうした集まりの場でも、私たちは本当に同じことを共有しているのであろうか、という問題を感じながら思考していることを述べた。その上で、「一緒に」集まって考える、あるいは「一緒に」道を歩く、といった時に、「一緒に」とは何を意味しているのか考えたいという抱負が述べられた。

 


宮田晃碩氏

 

建部氏からは白川静の「道字論」の一節が紹介され、道というものは、もともと人間が居住する共同体の居住地というものを持ち、その外に出ることは非常に挑戦的なことであった、外はつまり精霊たち、自然がひしめき合っている場所であり、そこに道を通していくという行為はチャレンジングなことであったことが確認された。そのために、道に呪術者が先祖の首を携えていき、そして首を置いた場所が、「邊」(首という字がある)であるという点紹介され山田論文のさらし首の見た風景と道端の草の記憶に関する議論にも触れながら、今後石牟礼を読む際に白川静と連関させてみていく提案がなされた。

 

 建部良平氏

 

佐藤氏は、読書会に参加する経緯を振り返りながら、以前から『苦海浄土』関心あったが、環境哲学者として環境問題の現場に身を置いていた経験もあり、非常に重く捉えていたからこそなかなかコミットできなかったことを述べた。そして石牟礼の語りについて、宮本氏が指摘したように、science based on evidenceとscience based on narrativeの間を考えていくことが求められるとし、石牟礼テクストを読む際の多様な態度への可能性示唆された。

 

 
佐藤麻貴氏

 

執筆者が一通り感想を述べた後で、そのほかの読書会のメンバーも発言していった。

田中雄大氏は、石牟礼文学が、日常言語(公的言語、説明的言語、規範的言語等)とどのようにずれているのか、という問題に関心があって参加していると述べ、今回のブックレットの論文もさまざまな角度から、どれも日常の場とのズレ、異質なものへの関心が共通していたのではないか、という指摘があった。

 


田中雄大氏

 

また2回のワークショップのコメンテーター及び司会を務めた鈴木将久氏は、初回から読書会に参加し、2回のワークショップを経て完成したブックレットを読んでみて、それぞれのテクストがかなり変容してきたことを感じたと述べた。コロナで身体的に身動きが取れず、様々な意味で干からびていた感覚があるが、読書会でどこに向かうか予測できない変化や発見を感じたことが自身に潤いをもたらしたことが述べられた。そして、来月から石牟礼の新作能や琵琶の語りを観ることになっているという展開に驚きながらも、そこでさらに私たちが発見と変容を得られることを期待していると述べた。

 


鈴木将久氏

 

伊達氏から、小国論という歴史の重層的な把握の問題に取り組んでおり、そこから石牟礼道子に接近して考えたいとし、関心の在り処と感想が述べられた。

 


伊達聖伸氏

 

 最後に、石井氏から、声と歌の違いと共通性について、より深い考察を行うことの重要性が指摘された。そして、このコロナのもたらしている状況もそうであるが、今、福島第一原発の汚染水海洋の方針が決まるという事態も進む中で、この会がそもそも災害文学という問題関心から始まったということにもう一度立ち返る必要があると述べ、私たちの現在とこれからを再度確認する形となった。

 


石井剛氏

 

 この石井氏の声と歌という問題提起は今後の会の方向にとって重要なものであったように思われる。これについてさらに応答が相次ぎ、特にナチスドイツにおけるハーモニアの問題などその危険性への注意の喚起もあり、音の次元における倫理性の問題、渾沌の死と新たな渾沌の生まれている可能性、そこから異質な音、不協和音のオーケストラ、尺八や琵琶のノイズを取り入れた武満徹の試みまで話題が広がった。さらに宮本氏から、声と歌だけではなく、踊り、身振りの次元が大事であることも付け加えられた。

 

 

今回の合評会は、これまでの歩みを確認する作業というより、さらにもうひとつの次元へ漂浪(されきだすような重層的かつ錯綜する議論の場となったと言えるだろう。その中で、自然と声と歌、身振りや踊りという次なる課題が示され、期せずしてというべきか、5月以降に控えている石牟礼の新作能と、1980年代まで熊本の辺りで活躍していた琵琶法師「山鹿良之」の語りの上映会に向けて、問題意識を共有する場ともなった。

能は河原乞食と呼ばれたような民によって死者鎮魂の儀礼として始まったものであったこと、平家琵琶も、盲者の語り部が共同体の外側から死者、むかしの人々の声を語るものであることを改めて考えるにつけ、災害という出来事と言葉の次元がどのような関係にあるのか、そこで何か起こっているのか、を何らかの形で感じ取れるのではと想像する。それを今、私たちが一緒に見るという営為が、新たに何を生み出し、発見させるのか、期待を込め、本年度もどこへいくか予測不能の舟に乗って、移動し続けていきたい。そして、旅をすること、歩くことを身体を伴ってできる日が来ることを願ってやまない。

 


101号館EAAセミナーにて集合写真(左から、建部氏、宇野、宮本氏、髙山氏、山田氏)

 

報告:宇野瑞木(EAA特任研究員)

写真撮影:立石はな(EAA特任研究員)