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2023.11.02

EAA連続レクチャー第1回「内戦と民主主義:シュミットのホッブズ読解を手掛かりに」(金杭氏講義)

 20231017日(火)午後、金杭氏(延世大学/東京カレッジ招聘教授/EAA訪問フェロー)によるEAA連続レクチャーの第1回「内戦と民主主義:シュミットのホッブズ読解を手掛かりに」がEAAセミナー室で行われた。企画者の石井剛氏(EAA院長)が司会を務めた。

 今回のレクチャーにおいて、金杭氏はカール・シュミットのホッブズ論を軸に、アガンベンのホッブズ解釈を補助線としつつ、政治哲学的な見地から近代以降の民主主義について批判的に考察した。その念頭には1960年代以降の北米におけるアイデンティティ政治、アジアとアフリカにおけるポストコロニアリズムの問題、ジェンダー問題および難民問題などがあったという。金氏はまず20世紀末の戦争が「グローバル内戦」(global civil war)という様相を呈していることを指摘した。そういった戦争は古典的な国家同士の争いよりも、犯罪者に対する警察の捜索・鎮圧作戦に近いものであった。そこでは犯罪者・テロリストしての敵は規範を共有する同類の人間よりも、むしろ価値の共有・約束・信義が存立不可能な「非人間」になっているという。
 金氏によれば、こうした内戦の構図はすでにシュミットの議論で主題化されている。政治的なものを「友-敵」という図式で捉えたシュミットはやがてこの図式を国家間の戦争ではなくある全体社会の内部における敵対、すなわち内戦と結びつけるようになった。つまり、普遍主義に根ざす単一規範の支配下では内戦がパラダイムになり、そして内戦における敵は殲滅すべき「絶対的な敵」(『パルチザンの理論』、1963)とされている。主権国家のパラドックスはまさにそこにある。いわゆる人民主権は単一の意思と均一な「人民」を想定しないと成立しえないが、現実の「眠りから覚めた主権者」はむしろそういった人民像を覆す存在になるのである。
 金氏はさらにこの問題をシュミットの戦前の著書『リヴァイアサン』(Der Leviathan in der Staatslehre des Thomas Hobbes, 1938)に遡った。本書においてシュミットは西洋の自由民主主義が内戦をパラダイムにして確立していった過程を描きながら、主権国家崩壊の萌芽をホッブズに見たという。というのは、シュミットの見方では、リヴァイアサンが主権の単一性による偽奇跡・偽予言の禁止、言い換えれば政治と宗教の本来的な統一を存立条件にしているものの、ホッブズが「私的なものと公的なもの、信仰と告白の区別」を導入し、内面の留保を可能にしたため、スピノザのような自由主義者に突破口を与えてしまい、主権国家が「ユダヤクリスチャン的な自由主義」によって蝕まれていくのである。
 このことは「内戦の政治」の肥大化(嫌疑、監視、密告、拷問…)をもたらしている。普遍主義に基づいて主権を合理化・規範化した自由民主主義も「内戦」を例外ではなくまさに常態として抱え込まざるをえない。こうした普遍主義に訴えた現代民主主義のアポリアを指摘しつつ、金氏はアガンベンの議論を援用し、地上の権力すなわちリヴァイアサンの終焉後にバラバラになった群れの「肉体」の救済についても議論を展開した。
 その後の質疑応答において、参加者からはバルチザンと土地の関係、シュミット自身の境遇、アイデンティティとシティゼンシップの優先順位、内戦の問題とアガンベンの肉体論の関係などをめぐって質問が寄せられた。

 報告者個人の関心からいえば、金氏の講義で問題とされていた「内戦の政治」すなわち普遍主義による非普遍者(とみなされるもの)の捜索・鎮圧は、近代中国の思想家章炳麟が20世紀初頭に批判した「公理」観と「文明-野蛮」図式の暴力性に通じるものがあるように感じられた。この根深い問題に対処するには自由、民主、平等といった理念の再考が不可避であろう。それと関連して、質問に対する金氏の応答では「自由」を一種の権利ではなく空間的に考えるための手がかりとして「アジール」概念が言及されたことはとくに興味深く思われた。空間の視点から考えると、報告者が思い起こしたのは複数の主権国家の辺境を跨ぐ「ゾミア」(Zomia)と呼ばれる地域――人々は国家の支配を回避するためにそこの山奥で生活しているという観点がある(James C. Scott, 2009)――である。普遍的な理念を法によって表象・所有することだけでなく、それを即自的に営んでいるアウトサイダーの人々の生活空間に目を向けることもまた大事なのかもしれない。

報告:郭馳洋(EAA特任研究員)
写真:髙山花子(EAA特任助教)