2025年5月31日、第44回東アジア仏典講読会がハイブリッド形式にて開催された。今回は佐久間祐惟氏(東京大学助教)が発表した。当日は対面で9名、オンライン上では延べ13名が参加した。
佐久間氏は前回に引き続き、本講読会において数回にわたり検討を続けている虎関師錬著『正修論』のうち、「工夫第四」章の後半、及び「除障第五」章、「弁境第六」章、「質惑第七」章に対する訳注内容を発表した。
『正修論』の著者である虎関師錬(1278−1346)は、日本中世を代表する臨済宗の禅僧である。前回(第43回)のブログ報告にも詳しいように、仏教の伝来から鎌倉時代末期まで約700年間に亘る日本仏教の通史を表した書である『元亨釈書』の著者として、また五山文学を代表する詩僧として広く知られる。
しかし、その晩年の著作である『正修論』は閑却されて久しい。『正修論』は、南禅寺住持職を退いたのち、後進に対して自身の見解を示すために著された。本書の刊行から3年後に虎関師錬は死去している。佐久間氏によれば、師錬自身は本書が広く読まれることを想定して執筆したものの、江戸期に入るまで『正修論』の刊行は確認されない(佐久間祐惟「『正修論』の基礎的検討」『仏教文化研究論集』24巻、一般財団法人 東京大学仏教青年会、2024年3月)。佐久間氏は、師錬の禅僧としての思想を明らかにするためには本書の研究が不可欠であると考え、精緻な読解に基づく研究を進めてこられ、博士論文「虎関師錬の禅思想の総合的研究」にまとめた。現在この博士論文をもとに単著の刊行準備を進めておられるとのことで、今回の講読会の目的も、刊行に向けて訳注の最終チェックを行うというものであった。
筆者は仏教学に関して全くの門外漢であるため、虎関師錬の名も今回初めて知った無学者である。そのため研究会で議論された内容全てが新鮮であったが、もっとも印象に残ったのは、厳密な考証学的態度でもってテクストの厳密な解釈に臨む参加者の姿勢である。
佐久間氏の研究の目的は、「虎関師錬の著作の文献学的検討をおこなった上で、その禅思想の基本的構造を描出し、思想史的意義を論じ[…]中世に中国より本格的に移入された禅宗が、すでに多様な仏教教学の発展していた当時の日本においていかに受容され、独自の展開を遂げていったかを明らかにすること」であるという(東京大学大学院人文社会研究科・文学部教員紹介ページより:https://www.l.u-tokyo.ac.jp/teacher/database/11788_00004.html /2025年10月20日閲覧)。
ここに記されているように、虎関師錬の思想を明らかにするためには、師錬が著したとされるテクストの内在的読解(=書かれたことを読み分析すること)を行うだけでは不十分であり、その研究の初発において文献学的検討は欠かせない作業となる。その理由として、師錬が生きた時代から現在に至るまで、すでに約700年の時が経過していること、師錬が著したとされるテクストはその後幾人かの人によって写本されていること、さらには、その現存する写本が場合によっては師錬の死後数百年が経過した後に行われているケースがままある、といった点が挙げられるだろう。筆者が専門とする近現代思想史研究においても、最低限のディスコース分析(研究対象となる思想家が遺したテクストの外堀に関する情報、つまりはそのテクストがどのような媒体上で発表されたのか、いくつの版が存在しているのか等といった情報に関する分析)は求められるが、数百年、時には千年単位の時を超えたテクストを分析対象とする仏教学(あるいは朱子学をはじめとする「漢学」等)はその比ではない、ということをつくづく痛感した。
今回佐久間氏が検討対象としている『正修論』について言えば、康永二(1343)年に完成したものであるが、現存諸本は①舜興筆写、西教寺正教蔵所蔵(正保二(1645)年)、②正保三年刊本、見叟智徹刊、駒澤大学図書館・松ヶ岡文庫所蔵(正保(1646)年)、③寛文六年刊本、中野是誰刊、駒澤大学図書館・龍谷大学図書館所蔵(寛六(1666)年)の3本である。つまり、すべてのバージョンが『正修論』が完成して以後、約300年が経過したのちの写本であるということであるということだ。加えて、江戸期に著された『正修論』の二つの注釈書(無著道忠(1653–1744)著『正修論吹網疏』、幹山師貞(1676–1745)著『正修論注』)も存在するが、これらの注釈書についても、佐久間氏によれば、現在の研究水準からすれば不十分な箇所がある。
したがって、『正修論』の読解をもとに虎関師錬の思想を明らかにする作業とは、すなわち、現存諸本を比較検討した上でできる限り刊行当時のテクストの有様に接近すること、さらには、注釈書と原テクストを見比べながら、原テクストにおいて引用されている諸テクスト(経典や教説)に当たりながら、その正当性を吟味した上で、自身の解釈を展開する、という作業に他ならない。こうして書いてみるだけでも、それがいかに途方もない忍耐力を要する作業であるだろうか、と思う。
人によっては、そのような忍耐力をかけて一体何が得られるだろうか、なんと「タイパ」「コスパ」の悪いことだろうか、と思う向きもあるかもしれない。だが、解釈学の面白さは、このような厳密・厳格な作業の先に、それまでの学説を根底から覆すような独創的な解釈を示すことができる可能性がある、ということだ。これは仏教学に限ったことではなく、あらゆるテクスト読解一般に言えることである。私自身はフランス現代思想にある程度親しんできたが、ジャック・デリダやジル・ドゥルーズといった綺羅星のごとき哲学者たちもまた、西洋哲学のテクストの伝統の中で緻密な読解を行い、誰もが驚くような解釈を示して見せた人たちである。
以上、読書会の様子に圧倒されて縷々書き連ねてしまったが、佐久間氏のご研究に話を戻すと、門外漢として抱いた素朴な疑問がある。『正修論』の現存諸本、及び注釈書の全てが江戸期、17世紀中庸に世に送り出されたものである。このように、当時禅林において一定程度の流行を見せたと思われるのに、なぜ、それ以前、あるいはそれ以後、本書があまり顧みられなかったのだろうか。こうした素朴な疑問に対する答えも、近く刊行される佐久間氏のご高著で触れられるだろう。
報告者:崎濱紗奈(EAA特任助教)
