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2026.02.17

【報告】Joseph Needham's Intellectual Heritage and Its Contemporary Significance

202626日(金)10時より、東京大学東洋文化研究所にて、講演“Joseph Needham’s Intellectual Heritage and Its Contemporary Significance(李約瑟的知识遗产及其在当代的意)”が開催された。講演者は、ケンブリッジ大学ニーダム研究所を拠点に、中国科学技術史研究を牽引してきた梅建軍(Jianjun Mei)氏である。本講演は、ヨーロッパで行われた、中国科学史に関する20世紀最大のシリーズScience and Civilisation in China(『中国の科学と文明』)を軸に、Joseph Needham(李約瑟)の知的遺産を、現代の学問状況から再検討する試みであった。司会・コメントは田中有紀(東京大学東洋文化研究所)が務めた。


講演ではまず、ニーダムの生涯と学問的形成が丁寧にたどられた。生化学者として出発し、1930年代にはすでに国際的評価を確立していたニーダムが、中国人研究者・魯桂珍との出会いを契機に、中国文明と科学技術史へと研究の軸足を移していく過程が紹介された。第二次大戦期の中国滞在、戦後のユネスコ勤務を経て構想された『中国の科学と文明』は、単なる中国科学史ではなく、「近代科学はいかにして成立したのか」という根源的問いを、グローバルな比較の中で問い直す壮大な試みであったことが強調された。

講演の中心的テーマの一つが、いわゆる「ニーダム問題」である。すなわち、なぜ近代科学は中国ではなく、近世ヨーロッパで成立したのか。しかしニーダムにとってより重要な問いは、「紀元前1世紀から15世紀にかけて、人間の自然に関する知識を実用へと結びつける能力において、中国文明が西欧を凌駕していたのはなぜか」という点である。この視点から、講演者の専門に基づいた白銅や鉄・鋼技術をめぐる具体的事例が紹介され、西洋・東洋どちらが先に発明したかという点にこだわるのではなく、相互作用と伝播の歴史へと研究パラダイムが移行している現状が示された点は、説得力に富んでいた。報告者はコメンテーターとして、ニーダムが中国の代数学を通して「科学」という概念そのものを見直そうとした事例を付け加えた。

また、ニーダム研究に向けられてきた多様な批判も正面から取り上げられた。マルクス主義的枠組の過度な援用、道教偏重、近代科学概念の過剰な投影など、今日の科学史研究から見れば修正すべき点は少なくない。それをふまえ、近年ヨーロッパではニーダムの再評価が進んでいるという。本講演では、様々な科学史研究者の最新の研究を取り上げながら、西欧中心主義を根底から問い直した先駆性、科学・技術・工芸を分断せずに捉える包括的視点、知識や技術のグローバルな循環に注目する方法論、非西洋の知的伝統を現代につながるものとして評価した姿勢など、ニーダムに対する新しい評価をいくつか紹介した。

講演の結論として提示されたのは、ニーダムの思想が、単なる過去の学説ではなく、より包摂的な科学史を描き、多元的な科学技術の未来を考えるための重要な指標であり続けているという点である。「すべての知は無数の川が海に注ぐように、相互に合流する。」こうしたニーダムの信念は、学問のグローバル化が進む現代において、なお強い問いかけを私たちに投げかけている。本講演は、ニーダムを再評価するだけでなく、私たち自身がどのような世界史像・科学観を描くのかを考え直す、貴重な機会であった。

 

報告:田中有紀(東洋文化研究所准教授/EAA