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2023.12.14

【報告】EAAトークシリーズ「アートを通じて空気をする」 第3回「体の中の空気たち——Doing Air through arts」

*一部わかりづらい表現を改めました。(20231221日更新)

2023年12月6日(水)、東京大学駒場Iキャンパス18号館ホールにて、EAAトークシリーズ「アートを通じて空気をする」の第3回「体の中の空気たち——Doing Air through Farts」が開催された。同セッションでは、音楽家の中井悠氏と美術家の水内義人氏にご登壇頂いた。

中井氏は、No Collectiveのメンバーとして、偽音楽、ダンスもどき、音のお化け屋敷、上演に3年かかる演劇の台本、わらべ歌などを世界各地で発表されている。本学では副産物ラボを主宰され、実験・電子音楽、影響、癖、虚偽等の理論に係る研究を進められている。水内氏は、ユーモアあふれる音楽パフォーマンスや発明品の開発等を軸に活動を展開されている。「DJ方」としてご自身の声を使った作品を発信されるとともに、「巨人ゆえにデカイ」「Gas group」名義でバンド活動を行っている。

中井氏によるご講演は、近年進められている2つのプロジェクトの紹介からはじまった。1つはZoomというリアルとヴァーチャルのインタフェースがもたらすユニークな音楽形態を創造する《ZOOMUSIC》、もう1つはアメリカのピアニストDavid Tudor(1926–1996)が残した実験音楽に係る未完の構想《Island Eye Island Ear》(1974)を再現する試みであった。それら2つのプロジェクトは、音の生成、拡張、発信等を巡るエレクトロニクス技術(の機構それ自体)が、音楽を聴いたり、奏でたりするプロセスの中に完全に埋め込まれているという点において共通している。

そして、Tudorの構想にアプローチする中井氏のご講演は、ヴァーチャルという概念やヴァーチャルな世界の様相に係る議論へと展開していく。中井氏によれば、ヴァーチャルという概念の意味論的な起こりと17世紀における近代科学の萌芽は密接に関係している。Robert Boyle(1627–1691)やIsaac Newton(1643–1727)による真空を巡る実験の数々は、ある事象に属する計算可能な領域(matter of fact)が計算不可能な事象全体から認識上分離していくプロセスを伴っていた。かくして、様々な実態に属する説明可能な領域が計算式として記述されるようになり、なおかつそれらが計算式を基に再現できるようになっていく。このような計算、記述、再現の絶え間ない操作こそが今日ヴァーチャルな世界を拡張させ、電気信号に置き換えられた音という空気現象の遠隔的なやりとりを可能にしている。

しかし、このようなヴァーチャル化プロセスに絡め取られない空気があると中井氏は指摘する。それは(完全に意表をつかれたのであるが)おならであるという。現象としてのおならは、本来匂いと分かち難く結び付いているにもかかわらず、当然のことながらZoom越しには(正しい日本語か定かではないが)その発生音(?)しか届かない。換言すれば、Zoomの向こう側において、配信者のおならを聴覚と臭覚の両方で複合的に体感することはない。(言うまでもなく、他人のおならを体感したいかどうかは全くの別問題である。)

中井氏は、ある実態に属する説明可能な領域(matter of fact)の一部がいずれも純粋化されているという点において、真空状態とヴァーチャル空間は実のところ等価な関係にあると説明する。そして、おならこそが真空(ヴァーチャル)に対するリアルな空気の勝利(matter of fart)を祝福していると主張する!

このような中井氏のご講演に対して、水内氏は《屁語(へご)》で応答した。それは、様々な様態(?)のリアルなおならの音が集められた音源集で、いわばおならのボキャブラリーである。口での会話が禁止されたときのために研究されているらしい。(勿論、アート制作の一環である。)水内氏はご自身が発言される際、まず《屁語》で発言内容を表現され、続いてそれらを日本語に翻訳された。(言うまでもなく、パフォーマンスの一環である。)このようにして、水内氏と中井氏の空気談義は、(これまで経験したことがないほどの大量のおならの音を、短時間のうちに、かつ爆音で聴かされたにもかかわらず)全く無臭な空間の中で展開されたのである。

本セッションには、中井氏と水内氏がそれぞれ数名ずつ登場した。ご本人と影武者たちが中井氏と水内氏のお面を被って代わる代わる舞台上に現れたのである。中井氏は、メディアに掲載されることを前提とする講演等において必ずご自身のお面を着用されている。その理由は必ずしも本セッションの趣旨とは直接関係していないのであるが、お面着用のパフォーマンスはリアルとヴァーチャルの関係について絶妙な示唆を与えていたように思われる。もし、生身の中井氏と水内氏を知らなかったら、ダンボール製のお面に貼られた顔写真、すなわち一旦ヴァーチャル化されたイメージから生身の中井氏や水内氏の姿をありありと思い浮かべることはできるであろうか?

本セッションをZoom配信する上で、ちょっと面白いことに気づいた。当たり前と言われればそれまでだが、中井氏や水内氏のお面がZoom上で生身の人間としての躍動感を吹き返すことはない。両氏のことをご存知のオンライン参加者にとって、Zoom上に現れたのはむしろ劣化版の中井氏と水内氏だったのではないだろうか。ヴァーチャルのヴァーチャルはリアルにはならない。空気談義の中でも話題に上がったことではあるが、ヴァーチャルの世界からリアルな事象を想像できるのは、偏にリアルな体験があるからに他ならない。

私にとって、空気談義における2人の父親の会話が印象的であった。小さな子どもと添い寝をしているときの様子を語る2人のお面を被った父親たちの姿である。子どもたちの体臭は文化的には決していい匂いではない。しかし、子どもたちと添い寝をしている写真を見返したとき、その思い出が子どもたちの体臭とともに蘇るというのである。

中井氏曰く、同氏が言うところの(広い意味での)ヴァーチャル化プロセスには、良し悪しを巡る文化的価値観が介在している。同様に、ある状態の純度を高めようとする試み(純粋化)には、文化的価値観に基づく判定、選択、合理化、最適化というプロセスが付随している。他方、選択されなかったものや基準を満たさなかったものは、雑多なものとして画一的に捨象される。

この点において、水内氏の《屁語》は私たちの認識に些かの混乱を与える。暗黙のうちに雑多なものとして捨象されるおならの音が、わざわざヴァーチャルな音源として私たちの目の前に立ち現れる。ゆえに、《屁語》は電子的に発生させた音のように聞こえなくもないが、それでもなお私たちはそれらがリアルなおならの音のヴァーチャル版であることを認識できる。それらの音源は、元を辿れば(多くの場合、公には見えないところで展開されているとはいえ)私たちの身体現象の一部であり、私たちのリアルな日常経験そのものに他ならないからである。

完全に操作し得ない、そして完全にヴァーチャルな世界に絡め取られることのない体の中の空気たち——おなら。それらは、私たち人間がどんなに純粋化されたヴァーチャルの世界にのめり込んだとしても、私たち人間を絶えず身体的な、リアルな世界へと引き戻すのである。

本セッションでは、西垣龍一氏、奥田涼花氏、松下幸大朗氏の計3名によって中井氏と水内氏の影武者役が務められた。Zoom配信担当の反後元太氏とともに、直前リハーサルから質疑応答に至るまでご活躍頂いた。どういうわけか、セッション直前になるといつも機材トラブルが発生する。18号館共通技術室の木村嘉陽氏と青山恵氏には助けられっぱなしである。同日EAAではイベントが重なっていたこともあり、髙山花子氏にはイベントをはしごしてお手伝い頂いた。皆様のご協力に記して御礼申し上げる。

報告:野澤俊太郎(EAA特任准教授)
写真:髙山花子(EAA特任助教)