わたしたちは2024年3月29日と30日に、「Gongsheng/Kyōsei and Convivialism: Forging a Planetary Philosophy and Ethics?」と銘打った共同シンポジウムを駒場で開催しています。主催団体のひとつであるバーグルエン研究所中国センターは「共生」なる概念の領域横断的研究を2021年から開始しており、わたし自身もその当初から彼らのラウンドテーブルディスカッションに招かれていっしょに議論をしてきました。同じころ、台湾でも「共生哲学」を看板に掲げた新しい国際漢学(漢学は「Sinology」に相当する中国語で、日本では定訳がなく「中国研究」や「中国学」などと呼ばれています)を推進する運動が国立中山大学で始まりました。わたしは幸運にもこちらにもお招きいただきました。まだ新型コロナウィルス感染症の世界的流行によって国際的な人の移動が妨げられていた中でしたが、オンライン会議を通じて、北京と高雄がハブとなって東アジア、ヨーロッパ、北米を跨ぐ「共生」の思想運動に関わってきたことになります。2022年の学術フロンティア講義が「「共生」を問う」を年度テーマにしていたのは、こうした動きに対する東京からの応答という意味がありました。昨年3月の駒場会議は偶然にもほぼ同時に始まった二つの運動が交錯する最初の場となりました。
ここにはもう一つ別のストリームがあります。それは、フランスやドイツの思想家たちが中心となって過去に2回ほど発表されている「コンヴィヴィアリスト綱領」(Convivialist Manifesto)です(第1版、第2版)。ロサンゼルスに拠点を置く民間国際研究機関として広く洋の東西を跨いだ活動を展開しているバーグルエン研究所は、「綱領」中心メンバーであるアラン・カイエさんやフランク・アドルフさんらを巻き込んで、コンヴィヴィアリズムを「共生」に結びつけるべく、上記の二つの運動に合流させたのでした。念のため付言しておくと、イリイチの『コンヴィヴィアリティのための道具』日本語版では、訳者の渡辺京二・渡辺梨佐両氏が「コンヴィヴィアリティ」を「自立共生」と訳しています。
この駒場会議を受けて、わたしたちはこの運動を次のステップに進めるべきだという考えを一致して持つようになりました。「共生」概念が多様な翻訳の可能性に開かれていることを利用して、歴史や文化の背景が異なる多様な人々がそれぞれのことばでそれを解釈し豊かにしていくことを世界レベルで促していくのです。「共生のヘテログロシア」と呼んでもいいかもしれません。
そこで、わたしたち——バーグルエン中国センター、中山大学とEAA——は、もう一度東アジアのコンテクストにもどって、わたしたちならではの「共生」をこの地域の人々に向かって提示していくことになりました。2025年8月18日には、趣旨に賛同する人々が中国大陸、台湾(カナダ、フランス出身者も含む)、韓国から集まって、2度目の共生会議が駒場で開催されました。ここで行われた議論の成果は、東アジアからの「共生」のイニシアティヴとしてやがて台湾から中国語で出版されることになるでしょう。できれば日本語にも翻訳したいと希望しています。多くの歴史文化的共通点、経済社会的相互影響を有しながらも、地政学的な条件の下でコンフクリトも絶えないこの地域に住むわたしたちの経験に立脚して、望ましい「共生」のありかたを人類社会全体に向けて表現し、この地球に棲まうより多くの人々をさらなる議論に招き入れるための思想がその中にはつまっています。
今回のイベントにはもう一つ重要な活動がありました。それは、駒場会議の翌日から2泊3日で福島県の福島第一原子力発電所放射能漏洩事故の被害に遭った地域を訪れることです。昨年3月のシンポジウムで基調講演を行った中島隆博さんが飯舘村の田尾陽一さんに言及したときから、わたしたちは一度この「核心現場」を訪れて、社会と自然、そしてそれらが結びつくことによって成立する文化——風土と呼んでもいいでしょう——を破壊する現代文明の危機のもとで、もう一度「共生」に関する想像と思考を鍛え直さねばならないと感じていたのです。

田尾陽一さんと共に行った夜間のディスカッション。
飯舘村で見聞したことは数々あります。それらについては、ゆっくり反芻しながらやがて出版されるはずの書籍の中で表現しようと思います。仮にここで一つだけ挙げるとすれば、そこには悦びと楽しみがたしかに溢れていたということです。「悦びと楽しみ」とは、わたしが東アジア藝文書院の活動に取り組むようになって、特に始まって間もなくして新型コロナウィルス感染症の世界的流行が始まって以来、わたしがつねに大切にしてきた心持ちです。言うまでもなく、これは『論語』の冒頭にある「学びて時にこれを習う、また悦ばしからずや。朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」が典拠となっています。わたしたちは、災害——現代においてそれはほぼ例外なく人災だということにわたしたちは留意するべきでしょう——のあとにそれでも人が生きていくために必要なものは、学ぶことを習いとし、人と交わることによって得られる悦と楽以外にはないとわたしは思います。そして、飯舘村にはそれがたしかにありましたし、共にそこを訪れたわたしたちもまたたしかにそれを分かちあっていました。「共生」への招待は、つねに悦びと楽しみの共有であるはずです。それは、災害の後の生を営むわたしたちにあってなおのことそうなのです。わたしたちはこの訪問を通じて、置かれている現実によってさまざまに異なる悲しみ、怒り、痛み、苦しみの一端を垣間見てきました。ほんの二日の行程でそれらの奥行きに触れるのは到底不可能なことでしょう。何と言ってもわたしは一介の過客に過ぎなかったのですから。しかしそれでもわたしたちを未来に向かってつなぐのはやはり悦びと楽しみなのではないか、いやそうであるべきではないかとわたしは思いますし、飯舘にはそうした悦びと楽しみの種子がそこここに播かれているのを感じました。
この場をお借りして、田尾陽一さん、矢野淳さん、菅野宗夫さんほか飯舘村の皆さんに深い感謝の意を表したく存じます。また、今回のプロジェクトに参加した頼錫三さん、孫大川さん、Jean-Yves Heurtebiさん、林明照さん、李育霖さん、林啓屏さん、Mark McConaghyさん、魏淑美さん、宋冰さん、呂植さん、孫向晨さん、馬建さん、白永瑞さんにも感謝します。
EAAからは、何度も現地を訪れている張政遠さんがその経験を活かして獅子奮迅の活躍をしてくれました。初日の議論には中島隆博さんも加わってくれました。リサーチ・アシスタントの劉仕豪さんと席子涵さんは全行程で補助業務をしてくれました。
なお、下に示す写真は、飯舘村の中で最後まで帰還困難だった長泥地区です。オリンピックにあわせてその一部を制限解除する代わりに「特定復興拠点」と名付けて村内汚染土の集積地にしたのだそうです。現地の農家鴫原良友さんは、かつてこの地区がやがて消滅するかもしれないという危惧の中で、「(コミュニティの)繋がりとか、苦しみとか、悲しみとか、喜びとか、そういうものが詰まっているところかなと、そこの原点をわかれば、今、この避難してバラバラになっている心がひとつになれるのかな」と感じながら、避難解除の見通せない日々の中でもバリケードの中で草刈りを続けていたといいます(田尾陽一『飯舘村からの挑戦』256ページ)。このままでは長泥も飯舘も消滅しかねないからこそ、自分たちが自らの手で何とかしたいのだと田尾さんは語っています。長泥は阿武隈高原を南北に貫く国道399号線、別名「あぶくまロマンチック街道」が走る途上にあり、路辺には桜など美しい花を咲かせる木々が植えられています。コミュニティの繋がりは外に向かって広がっているはずですし、それはきっと山も海も越えていくでしょう。希望はそこにきっとあるはずです。

飯舘村長泥地区に位置する汚染土の集積場所。
石井剛(EAA院長/総合文化研究科)