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2021.05.07

【報告】〈経験〉を見つめ直すための哲学――メルロ゠ポンティと考える身体・他者・言語

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2021424日、東京大学共生のための国際哲学研究センター(UTCP)主催、東アジア藝文書院(EAA)共催のシンポジウム「〈経験〉を見つめ直すための哲学――メルロ゠ポンティと考える身体・他者・言語」がZoomにて開催された。

このシンポジウムは、UTCPが行っている一般向けの公開哲学セミナーのひとつとして企画され、EAAからも現象学・知覚の哲学を専門とする筆者(田村正資、東京大学)が参加して報告を行った。

今回のシンポジウムのオーガナイザーを務める山野弘樹氏(東京大学)が設定したシンポジウムの統一テーマは「〈経験〉を見つめ直すための哲学」であった。

そこに登壇するのはいずれもメルロ゠ポンティ研究者として活躍している酒井麻依子氏(筑波大学)、佐野泰之氏(立命館大学)と筆者であるが、UTCPのウェブサイトに掲載された趣旨文では、統一テーマとメルロ゠ポンティの関係が次のように述べられている。

友達と会話していて、ふと⾃分がこれまで思いも寄らなかった相⼿の新しい⼀⾯に気づいたとき、あるいは、公園を散歩していて、春の麗かな⽇差しや⼦供たちのはしゃぎ声に安らぎを覚えているとき、私たちは実際のところ何を〈経験〉しているのでしょうか? そして、それはどんな〈経験〉なのでしょうか? ⾔葉にすれば壊れてしまうようにも思える繊細で微妙な情感をまとった〈経験〉を、私たちはどこまで・どのようにして⾔葉で表現することができるのでしょうか?

こうした〈経験〉の⽣成やその表現をめぐる問題を、おそらくは最も徹底的に考え抜こうとした哲学者の⼀⼈が、20世紀フランスの哲学者、モーリス・メルロ゠ポンティです。多⾯的な思想を展開したメルロ゠ポンティ哲学の中から、今回は「⾝体」・「他者」・「⾔語」という三つのトピックを取り上げ、上記の問題についての議論を深めてまいりたいと思います。

私たちを日常の深みへと誘う哲学。流れ去っていく日々の経験に耳を澄まし、この手でつかみとって他者と共有するための哲学。メルロ゠ポンティの哲学に見出されるこのような側面を伝えることが、本シンポジウムの狙いである。

 イベントの趣旨文にも書かれているように、このシンポジウムでは、私たちが経験を豊かに捉えなおすためのメルロ゠ポンティ哲学を「身体」「他者」「言語」という三つの観点からとりあげた。三人の報告者がそれぞれひとつのトピックをとりあげるかたちで、田村は「身体」という観点から「メルロ゠ポンティと身体経験を見つめ直す」という発表を、酒井氏は「他者」という観点から「メルロ゠ポンティと考える他者とのコミュニケーション」という発表を、佐野氏は「言語」という観点から「経験を記述すること、世界を作り変えること」という発表を行った。その後は、オーガナイザーの山野氏が司会を務めるかたちで、聴衆との質疑応答の時間が設けられた。

 最初の発表を務めた筆者は、メルロ゠ポンティがなぜ身体経験に着目したのかを明らかにしつつ、彼が身体経験を解釈する枠組みを一般化して取り出すことを試みた。私たちの身体は、テーブルや椅子のような物体と同じように、材質や形状を科学的に記述することで理解し尽くしたと言えるような類の存在者ではない。どんなに力を尽くして他人の身体を客観的に記述し尽くしたとしても、そこにはいまだ、そのひと自身の「感じ方」が理解されないままに残っている。メルロ゠ポンティは、身体の在り方と深く結びついたこの「感じ方」を記述することによって、私たちと私たちによって生きられた世界のありさまを明らかにすることができると考えた。私たちの身体は、能力や技術のレパートリー(手が届く、◯◯kgまでの物が持てる、ハンマーが使える)を備えた習慣のシステムであることによって、世界をかくかくの仕方で私たちに経験させている。このレパートリーが異なれば、それぞれが経験する世界も異なる。さらに言えば、そのような習慣のシステムとしての身体は、皮膚に囲まれた文字通りの意味での「身体」を超えて、さらに外側まで拡がっていく。拡張された身体は、皮膚で触れていなかったとしても杖のさきに、靴の裏に、生々しい世界を感じているのである。

このような理解のもとでメルロ゠ポンティが身体経験をどのように記述し、理解を深めていったのか。筆者はメルロ゠ポンティが提出した事例だけでなく、マンガ『斉木楠雄のψ難』で描かれた超能力者の身体の記述や、劇場アニメ『鬼滅の刃』を鑑賞した格闘家の那須川天心の「感じ方」といった事例を用いながら、聴衆が自らの経験に適用できるようなかたちで一般化して提示してみせた。議論の詳細に興味がある方は、こちらの資料をご覧いただきたい。

 二番目に発表を務めた酒井氏は、メルロ゠ポンティが主に1950年代に遺したテクストを紐解きながら、他者関係をうまく解釈しながら他者と付き合っていくためのヒントを取り出そうと試みた。酒井氏の議論は、2020年に出版された単著『メルロ゠ポンティ 現れる他者/消える他者』にまとめられたものをベースとしている。専門家向けの書籍ではあるものの、興味のある方はこちらを参照してみることをお勧めする。

今回のシンポジウムにおける発表では、酒井氏はまず「そもそも他者と交流できるのはなぜか?」「私たちは他者とどのように交流しているのか?」という二つの問いを聴衆に提示する。田村の発表でも触れたように、客観的には記述し尽くせない「感じ方」が問題となるのは、この「感じ方」に直接アクセスできるのは私(他人)だけであって、他人(私)はそれを身振りや言葉を通じて理解するほかないからであった。であれば、どんな「感じ方」を持っているのか、あるいは「なにも感じていない」かもしれない他者と私たちはどうやって現に交流をしているのか、それが問題となる。メルロ゠ポンティは、ひとつ目の問いに対しては、私と他者が身振りや言語といった表現よりも根源的なレベルでの交流(前交流)を持っているからだと答える。だが、この根源的な交流は、私と他者が通じ合うことを可能にする一方で、私と他者の境界を曖昧にしてしまう側面も備えている。前交流における自他未分化な状態にとどまったままでは、他人を独占できなかったときに嫉妬を抱いたり、他人を偏見のうちに閉じこめて理解してしまったりといった未熟なコミュニケーションに頼ってしまうことになる。このような未熟さをどう理解し、そこからどのように抜け出すべきなのか。酒井氏はメルロ゠ポンティの記述を頼りに、私たちの日常的なコミュニケーションをよりよいものにするヒントを提示してみせた。

 最後に発表を行った佐野氏は、メルロ゠ポンティの文学論=表現論にも触れながら、経験を見つめ直す=表現にもたらすとはどういうことなのかについて集中的な考察を行っている。彼の発表もまた、2019年に出版された単著『身体の黒魔術、言語の白魔術』の議論をベースとしている。メルロ゠ポンティ哲学の主要なトピックをめぐってなされてきた議論を簡潔にまとめた前半部と、彼の文学論から生き方としての哲学観を引き出す後半部からなる同書もまた、興味のある方は参照されるとよいだろう。

今回の発表で佐野氏は、私たちがふだん経験していると思っている世界が、個別的で具体的なものというよりはすでに一般化され抽象化された意義であると主張する。冷たい水の入ったガラスのコップが目の前にあるとき、私たちが経験しているのはきめ細やかで情感豊かな世界ではなくて、類型化されたコップ、水といった意義であって、生々しい事物それ自体は忘却されている。したがって、私たちが生きる世界をそれ自体として見るためには、意識の自然な傾向性に逆らう特殊な努力が必要になるのだと佐野氏は論じる。ここから佐野氏は、私たちが生きられた経験へとどのように接近していけばいいのかについて、メルロ゠ポンティの議論を頼りに考察する。特殊な努力によって意識の自然な傾向性に反して顕わにされる生きられた世界は、それ自体が異様なものであって、私たちが慣れ親しんだ月並みな概念や言葉によって表現することはできない。それゆえ、すでに抽象的な意義に縮約されてしまった経験をあらためてみずみずしく生きられた状態に連れ戻すためには、それを独特な表現へともたらす努力が不可欠となる。メルロ゠ポンティはその努力を偉大な作家たちの文学的な営為のうちに見出している。彼らによる経験の表現=実現によって、私たちは世界の異様さへと連れ戻されると同時に、慣れ親しんだ世界の把握までをも変容させていくことになるのである。

 三人の報告の後、山野氏の司会のもとで聴衆からの質疑応答が行われた。発表の内容に深く立ち入るものから、自分なりの経験の解釈を問うものまで、たくさんの質問が寄せられた。発表者たちもまたそれに対して活き活きとした応答を繰り広げる、とても実りの多い時間であったように思われる。筆者がSNS等で観測した限りではあるが、今回の発表を受けて聴衆が自らの経験に立ち戻り、それをどうにか解釈しようと苦闘する様子を投稿してくれていたのを見て、「〈経験〉を見つめ直すための哲学」を伝えるという本シンポジウムの目的はあるていど達せられたのではないかと思う。筆者自身も、ふだんの学会発表とは異なる緊張感のなかで、ジャーゴンに頼りきることなくメルロ゠ポンティの哲学について論じるというのは貴重な経験となった。得難い機会ではあったが、また縁があればこのような試みに挑戦してみたい。

報告者:田村正資(EAA特任研究員)