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2022.01.13

話す / 離す / 花す(16)

猫の共同体と文の共同体

石井剛

 COVID-19のパンデミックで日常の行動が制限されるようになって以来、健康維持のために近所を走る習慣がつきました。ランニングコースのなかには、戦後に開発されていまはすっかり老朽化してしまった巨大な団地があります。住む人も疎らになり、整然とした通りも、上品に配置された緑地も、すべてが不思議な静謐に包まれたその一帯は、まるで都会の喧噪から忘れ去られたような佇まいです。その中を走っているとしばしば野良猫に遭遇します。野良猫がいるということは、そこに人が住んでいるということでもあり、この団地の住人と覚しき人たちが餌付けしている場面に遭遇することもよくあります。

 何度もそうした場面に遭遇していくうちに気づいたことがあります。それは、同じ猫をめぐって、人びとのネットワークができあがっているらしいということです。餌付けを介して知り合った人同士が立ち話をしていることもあるようですが——こういう人たちは猫に名前を付けて呼んでいるようです——、彼らが互いの素性を知っているとは限らないでしょう。一匹の猫が今日はあの人から、明日はまた別の人から餌をもらっているだけでなく、餌をやっている人同士が必ずしもお互いの存在を知っているとは限りませんし、あるいはまた、近隣同士でいがみ合っている人同士が、じつはお互いのあずかり知らぬところで同じ一匹の猫と仲良くなっているかもしれません。また、同じ一匹の猫が別々の人からそれぞれ別の名前を付けられていることもきっとあるでしょう。猫と近隣住民のこうした関係は、猫のいのちを支えているだけでなく、猫に餌をやるというその行為によって、人びとをも支えていると言うことができるでしょう。ふだんはいがみ合っている人たちも、猫を介することによって、結果的に猫を生かし、自分も生かす関係を共につくっているのであり、図らずも共生を実現しています。野良猫の存在は、開かれた緩いネットワークとして彼らが住まうヒトたちのコミュニティの平和を支えているのだと言えそうです。

 わたしは、テキストを通じた開放的ネットワークのことを「文の共同体/共同態」と呼んでいます。テキストを読むという行為はそれ自体、誰かとの共同作業であり、わたしたちはテキストを読みながら、その向こうにいる誰か別の読者と実は呼吸を合わせているのです。テキストがわたしたちを豊かにしてくれるのは、単にわたしたちが読者としてテキストの「声」を聞いているからではなく、その「声」そのものも、別の誰かの「声」を通じているのであり、わたしたちはそうした見えない「声」によって導かれるようにテキストを読んでいます。それはまるで団地の猫によって結ばれる緩い関係と同じような、共感なき共振のネットワークであり、そこでもまた、人びとは時代を超え、空間を超えて、テキストとその向こうの「声」によって救われているのだとわたしは思っています。

 ところで、駒場キャンパスにも野良猫は出没します。「駒猫」と呼ばれるその猫たちを含む東大キャンパスの猫たちをめぐる緩やかな平和の共同体を多角的に紹介してくれる『猫と東大。』という本があります。この魅力的な本の中で、小野塚知二さんは、人間の社会は野良猫がいる社会といない社会に分けられると言います。飼い主なき不幸な猫を保護し、不妊治療(同じ名詞でも人に対して施されるのとは正反対の処置ですね)を施す社会では野良猫が根絶されるというのです。一方、野良猫は、人間の管理下での生活に飽き足らず、自立して歩き回る「自由猫」と呼ばれることもあるそうです。野良猫のいない社会は猫にとって自由なのかどうか、そして、「自由」とは結局何なのか、思わず考えずにはいられない話です。小野塚さんは野良猫のいない社会を帝国主義のあとにくるポストコロニアルな思想としての動物愛護イデオロギーと結びつけたいと述べています。

 「文の共同体/共同態」に関しても似たようなことは当てはまることでしょう。今文経学の歴史が明らかにしているように、テキストは制度として認められた出版システムのなかでのみ再生産されるものではありません。「」は、いや文化全般は、そのような制度や経済のしくみごときで飼い馴らされ、消滅するほど柔なものではなく、もっと自由なものであり、その自由を支えているのは、人びとの文に対する渇望、文の向こうにある「声」を聞こうとする欲望にほかなりません。武田泰淳が戦火に焼かれた中国の公園で「焼け失せるともなお自己の「文化」をだきしめている身一つが残ったらそれでよいではないか」という感慨に至ったのも、そうした「文」の自由と、そして、その根柢にある本源的な共同性に対する信頼であると思われます。

 2021年はわたしにとっては正直辛い年となりました。それは、人と人、国と国の間があちらこちらできしむような音を立てて緊張し始め、それをほぐすための言葉を見つけるために必要な心の余裕と想像力が作動するチャンスを奪われていると感じることが多かったからです。その傾向は今年も強まるかも知れません。しかし、わたしたちの文化はそれほど脆弱なものではありません。なぜなら、文化のおおもとにある「文」への信頼と渇望は、わたしたちの生きる希望として絶えるはずがないからです。

 EAAもまた、宇宙的に広がる「文の共同体/共同態」の一部として、「文」への希望を育てる場所として、引き続き発展していくはずです。今年もまたみなさまの温かいご支援とご協力をお願いいたします。

2022年1月11日

Photographed by Hana