2025年5月10日、EAA本郷オフィスにて戦間期思想史研究会が開催された。本研究会は、2022年秋に発足し、今回が第4回目となった。「20世紀の第一次世界大戦と第二次世界大戦の間という時期(その前後の時代も含めて)に焦点をあてて、当時の東アジアないし世界諸地域の思想・言論を取り上げることによって、地域・ジャンルを横断する普遍的な問いを練り上げ、新しい学問を構築すること」(郭馳洋氏(EAAフェロー)による第1回研究会ブログ報告からの引用)を目指した本研究会は、その目的を達成するために、多様なメンバーによって構成されている(第1回、第2回、第3回のブログ報告を参照されたい)。
今回は、郭氏とともに本研究会を発足させた陳希氏(EAAフェロー)が、近代中国の「国語」形成について発表を行った。周知のとおり、「国語」の形成は、洋の東西を問わず、国民国家の建設と密接に関わっている。日本においても、言語の地域差が実に多様である中、そして、アイヌや琉球といった「異族」を併合した帝国として、国民国家を担う「国民」という主体を形成するためのメディアである「国語」(標準語)を創出するという一大プロジェクトが、上田万年をはじめとする言語学者たちによって展開された。今回陳氏が紹介した中国については、その地域差・多様性が日本をはるかに凌ぐことは想像に難くない。十大方言(北方語・呉語・粤語・閩語・客家語・贛語・湘語・晋語・ 徽語・平話)と呼ばれる多様性を内包する漢語に加え、朝鮮語・モンゴル語・ウイグル語・チベット語といった非漢語、さらには無数の地方語・少数民族の言葉が存在する中国において、「国語」すなわち「普通話」を創出するというプロジェクトがいかに困難なものであったか、その複雑な来歴を陳氏は明らかにした。
参加した郭氏、閔東曄氏(都留文科大学)、宮田晃碩氏(東京大学)、本ブログ執筆者の崎濱紗奈(EAA特任助教)が一様に興味深く思ったのは、中国においては近代的概念としての「国語」が創出される以前に、「文言文」という書面語、そして「官話」という口語、書面語・口語いずれにも分類し得るし、し得ないという実に独特な特徴を帯びた「白話文」といった、複数のメディアが存在していたということである。これに加えて、「方言」もまた、土地の民衆が話す「土語」とは異なり、その地域に暮らす知識人が共有する公共的なメディアとしての役割を担っていたことも、陳氏は指摘した。これらの近代以前の言語メディアが発達した背景として、多様な民族と地域を内包する帝国——とりわけ満洲族による漢族統治を行った清朝、さらには清朝が基盤として引き継いだ明朝——という、国の在り方を考える必要がある。「文言文」や「官話」は、話す言葉も異なれば文化も全く異なる複数の地域を「巡礼」する官僚という存在、そして官僚を養成するための科挙というシステムを可能にするために要請された。「方言」もまた、その地域出身の官僚の共同性を構築するために大きな役割を担ってきた。
今回陳氏が提示した興味深い問いの一つに、なぜ中国は、言語単位でネイションが形成されなかったのか、言い換えれば、なぜ中国は複数の中国として解体されず、一つの中国として存在する道を辿ったのか、というものがあった。この問いを考えるためには、国民国家の建設と言語というテーマに加えて、国民国家を揚棄することをその目標に掲げた共産主義のイデオロギーが深く関わっていることを念頭に置く必要がある。陳氏は、中国の国語形成史を考える上で、共産党と国民党のヘゲモニー争いが大きな影響を与えていることを指摘した。国家を超える「人民」という主体を形成するために、どのような言語が必要とされるかという共産主義陣営の議論を、国民党側もまた、強く意識せざるを得なかったのである。当然ながら、国語の問題は単に言語という領域のみに関わる問題ではなく、「中国」という存在とは何か、ということを考えることに直結している。
国家を超えるはずの「人民」が中華人民共和国という国民国家の構成員であるという、テーゼとしては明らかな矛盾を国家の建設当初から抱え込んでいる中国の特殊性について考えるために、「国語」の形成史を切り口とすることは実に面白く、知的好奇心が大いに刺激されたひとときであった。また、郭氏と陳氏が発起人となってはじまった本研究会が、両氏がEAAを離職した現在も続いていること、そしてそこに関わり続けてくださる方々がいることを、とても有り難く思うとともに、こうした集いが可能であり続けるような生きた場としてEAAが今後もあるように、微力ながら努力していきたいと思った。
報告者:崎濱紗奈(EAA特任助教)

