Guan Yifei管奕菲さん、EAAユースの修了、おめでとうございます。管さんがユース生として活動したのは、新型コロナウィルス感染症のパンデミックが収束し、国際的な人の交流が再び始まった時に重なります。2020年以来、3回続けてオンラインで開催せざるを得なかったサマー・インスティテュートも2023年から隔年で相互の国を訪れるかたちが再開され、管さんもこの年9月に残暑の北京を訪れています。
この時のサマー・インスティテュートは「Intimacy and Feeling」をテーマとするものでした。このテーマはわたしたち教員が設定したものでしたが、実は、このようなテーマを選んだのは北京大学の学生さんからの希望によっています。しかし、彼らの最初の希望と、実際に講義で指定されたテクストは全く異なっていましたので、きっとこれは意外なことに思われるにちがいありません。当初北京大学の皆さんが希望していたのは、日本社会における婚姻観と恋愛観に関するテーマでした。このような希望の背景には、彼らが現在置かれている社会の構造と現象が作用しています。そのことはわたしたち教員も強く理解しましたが、だからこそ、東アジア藝文書院の教育としては、一見客観的に見える現象を分析的に理解しようとするのではなく、そのような現象を構成する構造の基礎を反省的に把握するための言語を提供すべきだと考えました。古典的テクストを読むことは、そのような反省的把握のための言語を養うために最も有益な方法だからです。なぜなら、この方法を通じて、わたしたちは、客観的に見える現象に対して主観的に関与していくことができるようになるからです。
Intimacy and Feelingというテーマを参加者の皆さんがどのように考えたのか、またわたし自身がどう評価するのかについてはここでお話しするつもりはありません。もう2年前のことですから記憶も薄れていることでしょうから。ただひと言、王欽先生が報告書の中で書いていた文を引用しておきます。
われわれは、もう一度、死者の声に耳を傾ける必要がある。
古典を繰り返し読むことの意味はここにあります。そして、古典はニヒリズムとたたかうためのおそらく唯一の武器である、わたしはそう思うのです。しかし、そのためにはもう一つの態度がおそらく必要です。すなわち、わたしたちが歴史と現実を結ぶ関与の主体となるために、ある種のintimacyを受け入れることです。歴史にはトラウマが沈澱しています。ある種のintimacyを受け入れるとは、そうしたトラウマをすくい取って自分のものにすることにほかなりません。
何もそれはストイックなことでも、ヒロイックなことでもありません。トラウマと共にintimacyを受け入れるとは、別のことばを用いるなら、友を持つということです。『孟子』の一節を引用しましょう。
一郷之善士,斯友一郷之善士;一國之善士,斯友一國之善士;天下之善士,斯友天下之善士。以友天下之善士為未足,又尚論古之人。頌其詩,讀其書,不知其人,可乎?是以論其世也。是尚友也。
自分が住んでいるコミュニティから世界全体に至るまで、わたしたちは友を持つことができます。しかし、世界の優れた人と友となるだけでは不十分だと孟子は言います。それに加えて、古い人々の書物を読むべきである、書物を通じて得られる古い人々は「尚友」であり、それが大事だと孟子は言うのです。
EAAにやってくる学生さんたちは、管さんも含めて皆国境を越えたグローバルな交友関係を持つことに長けています。だからこそ、皆さんにはEAAの活動を通じて、「尚友」を持ってほしいとわたしは願っています。
パンデミックをくぐりぬけたわたしたちが、世界に充満するニヒリズムの中で、なおもよき人生、よき世界への希望を失わずに生きていくためにこそ、「尚友」は必要です。
管さんに対するわたしからの願いは、ローカルな親情とグローバルな友情の両方を育ててほしいということです。その中では時に傷つくこともあるでしょう。そんなときにこそ、「尚友」はきっと管さんの進むべき道を示してくれるにちがいありません。そして、その道はきっと、よりよき世界へとつながっていくことでしょう。
最後に、本日の修了式には管さんのお父さまとお母さまにもご列席いただきました。ひとり故国を離れて、ここ東京で過ごす娘さんのことを案ずる気持ちは、パンデミックのこともあり、ひときわ強かったのではないかと想像します。いまこうして、ご両親と一緒に管さんの新しい出発を祝うことができるのは、わたしたちEAAのすべてのスタッフにとってもこの上なくうれしいことです。この場をお借りして、ご来臨に感謝いたします。ありがとうございました。
2025年9月17日
東京大学東アジア藝文書院
院長 石井剛

