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2021.08.31

【報告】「東アジア」と時代的使命感:第8回日中韓オンライン朱子学読書会開催報告

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8月28日(土)日本時間 16 時より、第8回日中韓オンライン朱子学読書会が開催された。これまで同様、EAA のほか、清華大学哲学系、北京大学礼学研究中心との共催である。

 

 

今回は田中有紀(EAA、東洋文化研究所)が司会を務め、姜智恩氏(台湾大学国家発展研究所)が、2020年に出版した『被誤読的儒学史――国家存亡関頭的思想、十七世紀朝鮮儒学新論』(台湾聯経出版公司)について報告を行った。姜氏の博士論文をもとにした同書は2013年に日本で(『朝鮮儒学史の再定位――十七世紀東アジアから考える』、東京大学出版会)出版されたほか、20214月には韓国でも出版されている。

この読書会は、日本・中国・韓国の研究者が集い朱子学に関して議論を続けている。しかしそもそもなぜこの三国なのか。また、そもそも「東アジア」という枠組みで論じる意味はどこにあるのか。今回の姜氏の報告は、「東アジア」という枠組みで思想の歴史をみるとはどのようなことなのかを再考する機会となった。

姜氏の著書は、17世紀朝鮮朝の儒者たちの活動に焦点を当てる。朝鮮時代の儒学者たちは、中国を中心とする「天下」の中で、自分たちがいかなる状態にあるべきかを、常に思考の基準とした。また19世紀以降の植民地時代において、朝鮮儒学史研究者たちは、徳川日本の儒学史と近代日本の学術成果を強く意識しながら、自身の研究課題を設定していった。つまり、韓国儒学史の形成と認識を語るにあたり、「東アジア」という範囲を無視することはできず、日・中・韓全体を視野に入れなければならない。「東アジア」という範囲が歴史研究の単位として有効かどうかについては様々な疑問がある。たとえば葛兆光氏は、韓国と日本が受容したのは漢・唐を代表とする中華文明なのであり、17世紀半ば以降は、漢唐の中華という歴史的記憶に自己同一視をしなくなった、それ以来、歴史的同一性を持つ「東アジア」という空間は存在しない、という。これに対し姜氏は、歴史的同一性を持つ「東アジア」の存在の有無に関係なく、「東アジア」という枠組みをとることは重要で、この枠組みは中国・日本・朝鮮をむやみに同一化するのではなく、むしろその差異をも明らかにし得る点で、有効な枠組みだと述べる。

明清交替に伴い、「夷」が「華」に取って代わったとされる中国と向き合い、朝鮮や日本の儒者たちは、どのように自己を認識し始めたのか。姜氏が著作で繰り返し述べるように、17世紀朝鮮の儒者たちにとって、朱子学は批判すべき対象とはなり得なかった。植民地期の儒学研究が示すような、自らの「独創性」を示すために朱子学を批判するという構図は朝鮮朝には存在し得ない。科挙を受けるため徹底的に朱子学を学ぶ朝鮮朝の儒者たちにとって、朱子学の枠組みで物を考えることは当然であり、朱熹の残した様々な記述から自分の解釈こそが朱熹の真意と同じであると主張することで、自らの思想を明確にしていく。これは科挙が行われなかった徳川日本と大きく異なる。そのため、朱子学を批判した江戸の儒学者が「独創的」であり、朝鮮の儒学者が朱子学に追随し「非独創的」であったとはいえない。

このように姜氏は、植民地期の儒学研究による、「十七世紀に朱子学に対する批判意識が芽生え、朝鮮後期に登場する「実学」思想の萌芽となるという通説に異議を唱え」るが、「植民支配下の学界が果たした努力と貢献を等閑視するものではない」という。姜氏はこの「努力と貢献」を十分理解した上で、21世紀における自身の儒学研究の使命を、「植民地時代に朝鮮儒学史研究に絡みついた時代的使命感を切り離し、その歴史的展開を実証」することだと捉える。

姜氏は報告者が大学院時代をともに過ごした同級生である。在学中、ともに朱子学や経学について語り合ったが、「植民地期の儒学研究が背負った時代的使命」というものは、当時の私にとっては非常に遠い存在であった。時代的使命と距離を置き、テキストをありのままに読み、前近代の儒者がおかれたコンテクストを重視すること――これは当然のことであり、特定の時代的使命感が絡んだ研究については、その中で今でも採用すべき成果があれば採用すればよいし、そうでない部分については黙って見過ごせばよい。私はそのように考えていた。

しかし朱子学的普遍性、あるいは植民地期の雰囲気を共有しない私たちにとって、「東アジア」という枠組みがもたらす時代的使命を、過去のものとして冷静に見ることは本当にできるのだろうか。いま改めて姜氏の著書を読み、報告を聞き、17世紀の儒者たちのテキストと向き合うことで、私たちもまた、結局のところ、時代的使命感を自分の根底に持ちながら研究しているのではないかと気付かされる。17世紀やそれ以前、あるいは近代以降も、私たちは依然として「東アジア」の中で生き、その枠組みの中で思考している。植民地期の儒学研究が「実学」「独創性」を重視したという事実が、彼らがまさに「東アジア」という枠で世界を見ていたからこそ、もたらされたように、私たちの研究もまた結局のところ、「東アジア」に連なっているのではないか。姜氏のいう「朝鮮儒学史研究に絡みついた時代的使命感を切り離」そうとする態度が、私たちの時代的使命感であるとするならば、そもそもそれは一体何なのか。少なくとも私は、自分の根底にあるだろう、その時代的使命感を意識の外に追いやってしまうことなく、自分の研究に向き合っていきたい。

 

報告者:田中有紀(東洋文化研究所)