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2021.05.13

【報告】第16回石牟礼道子を読む会

2021年4月27日(火)15時より、第16回石牟礼道子を読む会がZoomにて開催された。昨年6月以来、おおよそ隔週で開催し、『苦海浄土』三部作を中心に読み進めてきたこの集まりだが、今年度からは、メインテクストについての発表回は、発表担当者が自由にテクストを選んで開催する運びになった。今回、発表を担当したのは張政遠氏(総合文化研究科)である。加えて、鈴木政久氏(人文社会学研究科)、武田将明氏(総合文化研究科)、佐藤麻貴氏(EAA特任准教授)、宇野瑞木氏(EAA特任研究員)、建部良平氏(総合文化研究科博士課程)、報告者の髙山花子(EAA特任助教)の合計7名が参加した。

張氏が選んだ石牟礼のテクストは、「愛情論初稿」(1958-1962)で、これまで氏がさまざまな角度から愛の哲学にアプローチしてきたことからこのテクストを選択したものの、読んでみると、これは愛情論というよりは、人間論とでも言うべきものであった、というコメントがこのテクストの本質を射抜いていると思った。結婚、家制度、生殖・育児をめぐる男女の違い、現代に通じる諸々のテーマを経由して、張氏は最後に、「国」を愛することができるとすれば、それはエロス的なものになるのか、アガペー的に愛するものになるのか、という彼自身の関心を明かした。そこから、愛の方向と範囲をめぐって、儒教や仏教の文脈が参加者の中から提起されたのだが、最も印象に残ったのは、この「愛情論初校」の最後で、石牟礼である「あたし」が父である「彼」の喘息の様子や農夫としての仕事を描写し、「彼は…」という三人称で語る異質性をどう理解できるのか、という問いだった。たとえば、こんな記述がある。

彼は嫁にやってからアカがかってきて、奇病のことなんかを書いているらしい長女のことを思う。親はどげん世間のせまかか。ときどき豚の餌荷いに朝の暗かうちに加勢に来たりするが、嬉しゅうもなか。呉れた娘に、白石亀太郎は、野垂れ死しても、世話にならんぞ。会社に弓ひいたりなんのして。(石牟礼道子『石牟礼道子全集・不知火』第1巻、藤原書店、2003年、83ページ)

実父との軋轢や距離を感じさせながら、それでもなお、このように「彼」の内心の声を記述する手つきを、石牟礼の『苦海浄土』に現れる聞き書きと比較すると面白そうである。

 

 

報告:髙山花子(EAA特任助教)