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2021.09.29

【報告】第1回EAA批評研究会

2021年9月2日(木)、第1回EAA批評研究会「近代日本の批評とメディア」が開催された。本研究会は、様々な概念・事象・テクストから「批評」そのものを問い直すとともに、「批評」を広く世界史・文学・哲学の文脈に向けて開き、新たな知のプラットフォームの構築を目指す試みである。第1回目の研究会として、大澤聡著『批評メディア論―戦前期日本の論壇と文壇』(岩波書店、2015年)に関する読書会が行われ、研究会メンバーの他、EAA内外から6名が参加した。

 

 

研究会ではまず、郭馳洋氏(EAA特任研究員)による『批評メディア論』の内容紹介があった。同書は、何が「批評」たらしめるのかという問いを起点とし、1920年代後半から30年代の論壇・文壇に焦点を当て、論壇時評・文芸時評・座談会・人物批評・匿名批評などの各種批評形態を中心に、批評の言論を支えてきたシステムの解析を試みた研究である。各章の論点のまとめに続き補足として、郭氏からは同書が取り扱う時代以前の、明治期における「批評」の成立史の紹介があった。“Criticism” (英)の訳語である「批評」は、その歴史を遡ると幕末の辞書『英和対訳袖珍辞書』(1862)などに既に記述があるという。西周の『百学連環』(1870)、さらに『哲学字彙』(1881)などを辿ることにより、アカデミズムにおけるCriticismの訳語として「批評」が定着した背景の解説に加え、1880年代の雑誌における批評欄の設置、それに伴い生じた「作品」と「批評」の応酬関係、さらに書物の量的増加に伴う明治中期の「批評」のブーム(あるいは氾濫)に関する説明がなされた。

 

 

続いて自由討論では、前掲書に関するコメントを交えつつ、参加者各々が「批評」に対して抱く問題意識や気づきを共有していった。近代日本思想史を専門とする郭氏は、『批評メディア論』に繰り返し現れるテーマ、「大衆性」に言及した。同書では、消費者としての大衆が主に扱われているが、郭氏は「大衆」が批評家としての側面をもつこと、さらに同書に登場する批評家たちの多くがマルクス主義に影響を受けていることを指摘した。このことから、マルクス主義的な「大衆」像を考慮する必要性に触れつつ、「批評」というものを考える際に「大衆」概念そのものの孕む多面性を検討する重要性を強調した。

郭氏に続き、片岡真伊(EAA特任研究員)が、前掲書を読み進める中で関心を抱いた批評と「読者」/「編集」との関わりについて述べた。前掲書の目的の一つは、川端康成が幽霊に喩えた「文壇」「読者とかいうもの」の正体を見抜くことにあると、大澤氏はいう。その読者の正体、とりわけ「一般読者」というものの具体相(想定読者層が雑誌によりどう異なるのかなど)への興味に加え、批評が生成され読者の手元に届くまでの編集・出版過程において生じ得る変数(=編集や変更、軌道修正)など、文学翻訳の編集・出版現場を研究する立場から抱いた関心についてコメントした。

中国哲学・思想史を専門とする田中有紀氏(東洋文化研究所准教授)は、自身の分野にみる批評の場合に言及し、批評を考えるうえで極めて重要な問いを投げかけた。中国では、『四庫全書総目提要』にみるような、優れた知識人がその時代の本を網羅的に読み、提要をつけ、それに対し自身の意見を書くという確固たる伝統があるという。では、郭氏の紹介した明治期の批評成立以前には、何かしら書物を批判・批評するような歴史は日本にあったのか。そして近代以降の批評はそこに接続するものなのか、という問いが寄せられた。

近代以前・以降の「批評」の接続性に加え、環境倫理学を専門とする佐藤麻貴氏(EAA特任准教授)は、「批評の力」そのものを考える必要性を指摘した。佐藤氏は、現代における批評力の減退に加え、その結果、批評・批判が届くべきところに届かずにいる現状に触れた。そして、批評が可能性の条件を探る一つの試みであるという観点から批評全体を捉え直すならば、「批評」という試みを通して、人が何を掴もうとし、いかなる社会を拓こうとしているのかを考えるべきだとの提言があった。

フランス哲学の研究者である田村正資氏(EAA特任研究員)は、批評家の読者の目線への意識、そして無意識かつ間接的に編集・編集者を介して言論が規定されてゆく批評の側面に強い関心を寄せているという。また、そのダイナミズムを踏まえたうえで、さらに未来に向けて批評と編集の関係性について考えたとき、現在と過去の言論空間をどう比較できるのかという問いが生じたと述べた。雑誌よりも新書で批評がなされる現代において、批評家たちを規定するマテリアリズムがどう描き出されるのかについて考えてみるのも面白いのではないかという提案もあった。

明治時代を専門とし、一高プロジェクトにも関わる高原智史氏(EAAリサーチ・アシスタント)からは、自身の研究と批評との関わりを考えた際に想起した、一高生が編集を手がけた雑誌に登場する批評欄についての紹介があった。批評欄やそこに掲載された批評をめぐり、いかなるメカニズムが生じたのかを、この研究会への参加を機に考えてみたいという。明治35年ごろの貸本屋の本の流通のあり方や、そこに集う書生たち、さらに本が並べられる環境・空間を考える必要性を指摘する高原氏の話を通して、批評を掲載した同時代の雑誌の模倣・伝達・共有がなされた校内という知的空間や時代相が共有された。

今回の研究会を通して浮かび上がったのは「批評」そのものの向こうに何があるのか、という大きな問いである。それは、批評の生成環境・現場において、批評家たちが受ける意識・無意識の制約や編集、田村氏の言葉を借りれば、「批評家たちを規定するマテリアリズム」を指す。と同時に、佐藤氏が提言したように「批評」の届く先に萌芽し得る可能性や、「批評そのものの力」を問うことをも意味するだろう。また、何かに対して私はこう思うと示し、自身の考えの元に整理・要約するという行為は、時代・分野を問わず人間誰しもが行う営為である。だからこそ、横断的に「批評」について考えてみると「批評」が何なのかということが見えてくるのではないかという田中氏の発言は、この批評研究会での試みに重要な意義を与えてくれた。

「批評」という行為は、いかなる研究分野においても不可欠な要素であり、学問の枠組みを超えた横断的な研究の可能性を拓く豊かな土壌にもなり得る。今回の研究会を通してそのことを再確認するとともに、参加者それぞれのパースペクティヴから、「批評」にまつわる様々な問題意識やテーマ、関心の所在が共有されたことは大きな収穫だった。これらを手がかりとしてどのような「批評」の実像や可能性が見えてくるのか。今後の研究会の展開に期待を膨らませつつ、各々が専門とする各分野の観点を共有し、思索を深め、研究の活性化へとつなげることのできるような有機的な知の交流の場をどう形作るのか、共に考えていきたい。

 

報告者:片岡真伊(EAA特任研究員)