ブログ
2022.03.01

【報告】『モーリス・ブランショ——レシの思想』合評会

昨年9月末に、博士論文にもとづいた『モーリス・ブランショ——レシの思想』を水声社より刊行いただきました。わたしが東アジア藝文書院(EAA)に特任研究員として着任したのは2019年9月1日、博士論文の提出は2020年1月7日だったので、最終的な論文執筆と仕上げは、EAA在職中に進んだと言っても過言ではありません。COVID-19の感染拡大によって、同年3月30日の口頭試問は、対面で実施されたものの、非公開になりました。色々な事情から、自分の博士論文には既出部分がなく、すべて書き下ろしであったため、研究内容を知ってもらうことはもちろん、批判をもらいたい、という願いが、本になることで叶ったことに、いまも心から感謝しています。

 

刊行直後に、張政遠先生が書評会のアイディアをくださり、王欽先生も参加してくれることが決まりました。当初、よくある書評会のように、何人か評者を立てる予定だったのですが、最初の読者の一人でもあった王先生と話をして、全体的に難解な部分が残っていること、かたやブランショ以外の文脈と結びつけられて語られる平易な部分とのちぐはぐ感があることがこの本の課題として浮上し、最初に自分自身で自著についてプレゼンテーションし、そのあとで、参加された聴衆の方々に自由に発言をいただく、出入り自由の3時間企画になりました。

 

結果として、12月14日(火)当日は、17時より、EAAのメンバーを中心に、一般の方にも数多くご参加をいただいて、途切れることなく言葉を交わすことができました。課題として痛感したのは、第2章「「想起なき虚無の言明——「虚構の言語」における「レシ」」で論じたブランショによるヘーゲル読解をもっと他の議論と結びつけて、批判的に読み解く必要があるということ、それから、関連して、第4章「来たるべき歌——マラルメとクラテュロス主義」で論じた、一言でいえば、言葉によってモノが創り出されるときのそのモノとはいかなるものなのか、について、説得力のある明快さがなかった、ということです。これらについては、ブランショを再読するとは別の形で、パースの記号論を参照する、といった方途で答えてゆくことが今後の自分の課題になりそうです。

 

もともと、わたしが博論終了後にEAAで予定していた研究は、北京生まれでフランスで活躍した画家ザオ・ウーキーとアンリ・ミショーをはじめとする詩人たちの交遊から、アブストラクション概念を精査するものでした。彼らは象形文字である漢字や書についてもあれこれ考えていたので、ブランショの時代から発展して、言語のかたち=形象について、腰を据えて、具体的な非言語芸術とともに勉強したい、と思っていました。しかし、コロナをはじめとする状況で、中国、フランスでの資料調査も見据えたこの計画は大幅な変更を余儀なくされました——というよりも、実質、本格的に着手することが難しくなってしまいました。そうしたなかで、EAAで偶然読み込むことになった石牟礼道子や、知里真志保をとおして、ブランショの鍵語となっていた物語や叙事詩の意味を再考し、それから、映画制作に携わることでドキュメンタリーやフィクション概念の拡張、変化について、実作者の立場や思考に接近して考える機会を得られたことは、博士論文以後の自分の学究にとって、かぎりない僥倖だった、と噛み締めています。

 

括弧付きの「政治的ブランショ」にどうアプローチするか、ということもまた、積年の課題でしたが、それについては、まだうまく言葉にできないものの、「生」という視点から切り込むことで、なにか見えてきそうだ、という手応えを感じています。そのためにも、読むことの孤独の強度に耐えうるような思考をつづけたい、書くことの孤独を楽しみたい、と強く思っています。

 

報告者:髙山花子(EAA特任助教)