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2022.01.13

ホー・ツーニェン「百鬼夜行」&「旅館アポリア」視察

101号館映像化プロジェクトは現在、着々とそのゴールへと前進している。完成した作品をなるべく多くの方のご覧に入れようと思うと、どのような環境での鑑賞が可能であり、また望ましいかという問いが自然と頭をもたげてくる。映像技術の進歩は、単に画面内の表現技法を多様化させたのみならず、鑑賞形態そのものの選択肢をも増やしている。

 年が新たになり間もない18日、愛知県は豊田市を訪れ、豊田市美術館で開催中の企画展「ホー・ツーニェン 百鬼夜行」および、それと連動してとよたまちなか芸術祭の特別展示として企画された《旅館アポリア》の再現展示を鑑賞した。この訪問は、映像を鑑賞するという経験が、まずは強制としてあるということを想起させ、来るべき我々の映像作品の上映方法へと思考を促した。想起させた?そうだ。我々を取り巻く映像環境は、ある種の強制性を失っている。サブスクリプション型の、あるいは広告収入を前提とする映像配信サービスは、定額で手に入る視聴時間の全体との兼ね合いで個別の作品を見切ることを鑑賞者に促す。必ずしもそのような全体の時間を前提するような価値判断が差し挟まれずとも、例えば冒頭の数分が視聴者につまらないと判断されれば停止され、あるいはスキップされ、ひいては端から倍速で再生されるといったように、作品は従来持ってきた(許されてきた)個体性・全体性を喪失する。

 

 

 こういったことを強く思い起こさせるのは、「百鬼夜行」展が特徴的な構成をしているからだろう。展示室は4つあり、最後の展示室以外は、それぞれメインスクリーンから各16 19分ずつの映像が流れている。まるで動く屏風のようなアニメーション《100の妖怪》が横長のスクリーンを通じて映し出される展示室1では、実際に100体の妖怪が代わる代わる登場する。妖怪は一体一体がその特徴を誇示しては流れ去ってゆく。日本のアニメに触れてきた者からすれば、見慣れた造形も見受けられる妖怪たちの中にはしかし、旧日本軍の軍服と思しき姿をした妖怪や、サラリーマンのようなスーツを着た、とりわけ風変わりというわけでもない人間の男性風情の妖怪が紛れ込んでいる。当日は子連れ客も多かったが、幼い子どもたちが食い入るようにスクリーンをまなざしているのを傍目に、1630秒のアニメーションを見終えたところでただ呆然とするほかなかった。最近では、親がスマートフォンやタブレットで動画を見せてその子を黙らせ、育児の手をわずらわせないようにしていると伝え聞くが、これこそまさに強制の経験である。解釈の余地をその具象性において奪われたテクスチャを目でなぜるほかないという映像体験は、あるいは解像度の低い世界が幼児の眼にただ映じているという、原初的な受動性の再現なのかもしれない。

 

 

 展示室2では《36の妖怪》と題された、1845秒(本展における映像作品の中では最長)にわたる映像を観ることになる。本作では、妖怪についての解説が音声で流れてくる。そこでは、先に観た軍服姿の男が「大天狗」とのキャプション付きで説明され、あるいは鬼のような形相をした妖怪「魍魎」が193040年代にはアジア各地で見られた、という解説がなされる。妖怪とはたしかに、我々が自然的な世界から被る災いの具象化という民俗学的操作の産物だった。だとすれば、遠いといってもたかが80年ほど前の災いが(この場合は決して自然的と言って済まされないものがあるとはいえ)妖怪化されることは、どれほど奇異であろうか。現在世間を覆っているらしい、いわゆる陰謀論のことを、ここで想起してもよいかもしれない。とまれ、かくて我々はまんまと「百鬼夜行」の世界をおぼつかない足取りでたどることになる。百鬼夜行とは、我々鑑賞者のことなのか。


 展示室3以降における作品についての詳細は割愛するものの、それらの作品は今回の訪問のもう一つの目的である《旅館アポリア》と、主題的な重なりを持っている。本作については、202012月の第2回ワークショップ以降、作家であるホーとともに、本プロジェクトの中で折に触れて話題とされてきた。昨年47月、山口情報芸術センターにて開催された「ヴォイス・オブ・ヴォイド—虚無の声」もまた、アジア太平洋戦争における日本とアジアの関係を重点的に扱ってきた彼の一連の問題意識の中で捉え返すことができよう(今回同行した髙山花子氏(EAA特任助教)による報告も参照)。

 

 

 本作は元々、あいちトリエンナーレ2019において発表された映像インスタレーションで、豊田市内の喜楽亭という建物を使って展示されている。喜楽亭は大正期に建てられた旅館で、いわゆる神風特攻隊に配属となった当地の青年たちが最後の宴を楽しんだ場所としても知られており、現在は豊田産業文化センター内に移築されている。「アポリア」とは、古典ギリシャ語で「行き詰まり」といった意味を持つ語で、作品名には戦地に送られた若者たちの、そしてこの国の行き場のなさが、喜楽亭という場所(トポス)の歴史を参照しつつ表現されている。歴史考証を土台としたホーの制作スタイルを体現する代表作と言えるだろう。詳細な説明は、例えばすでに小崎哲哉氏によるレビューがあるので、参考にしてほしい。

 実は「百鬼夜行」展もそうだったが、本作でも各々の映像についてのナレーション=声が重ねられており、語りの幻想感が単なる映像の解説にとどまらない奥行きをもたらしている。この点については、大岩雄典氏がすでにいくらかの考察をめぐらしているので、参照されたいが、ここでもやはり「百鬼夜行」と同じく、4つの部屋に設置されたスクリーンに、12分の映像が7本、計84分の視聴が、訪れた者には課されている。しかも、コロナ禍という2019年の発表当時にはなかった事情により入場が厳しく制限されていたため、その受動性も一入といったところだ。各部屋には数人の鑑賞者が座布団に腰を下ろし、一斉にスクリーンに目を向ける。やおら立ち上がるわけにもいかず、映像が一区切りつくまでは離れられない。少なくとも、離れることは想定されてはいないようだった。そもそもそれは、映像インスタレーションというジャンルの特性に関わるものであり、ホーの意図による独自の展示構成ではないのかもしれないが、単にセクションごとに分けられているだけで、まるで映画館で映画を観るという鑑賞体験をなぞっていくもののようにも思われた。あるいは逆に、本来的に映像は停止したり巻き戻したりすることは想定されていないとしても、人間の身体について勘案すべき持続の切断というものはあるから、作者がそれを考慮に入れて、20分には及ばない長さの作品を分節化された空間に配置することは、日常的には失われつつある映像の本来的な鑑賞体験を回復するという効果を持つのではないか。だとすれば、来るべき我々の作品は、どのような強制力をもって、鑑賞者をいかなる空間に招き入れるべきなのか、豊田土産として考えてみたい。ところで、ここでいう作品とは、映像に限らないかもしれないことは言い添えておこう。

 

報告:日隈脩一郎(EAAリサーチ・アシスタント)

写真:髙山花子(EAA特任助教)