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2023.09.25

【報告】講演と演奏「中国の思想と音楽の美」

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2023917日(日)14:00より、千葉県長生郡一宮町の正法山明法院本堂にて、住職の秋葉日信氏のご協力のもと、講演と演奏「中国の思想と音楽の美」が行われた。一宮町民の方、近隣住民の方、そして一般社団法人日本古琴振興会のメンバーを合わせ30人ほどが参加した。

まずは馬淵昌也町長による講演「陽明学の知行合一について」である。馬淵氏は陽明学・仏教学を専門として大学で教鞭をとったあと、20165月より一宮町長を務めながら、現在でも精力的に研究活動を続けている。

 

 

なぜ王陽明は「知行合一」を説かねばらなず、そしてなぜ朱熹は「知先行後」を説かねばらなかったのか。馬淵氏は、朱熹と王陽明が語る良知の具体的なイメージに基づきながら、わかりやすく説明した。馬淵氏によれば、王陽明は、自身の経験から良知の正しさを外に求めるべきではなく、自分の道徳的良心が100%正確であると確信した。良知は100%の正しさで、我々を衝迫力をもって行為へといざなう。私たちはそのいざないに従うことでしか、良知の正しさを確保することができず、「知行合一」だけが正しいということになる。朱熹もまた、本性が完全に顕現すれば、人間は聖人となるのであり、誰でも聖人としての本質を持っていると考えていた。しかし朱子学では、その本性の発現は、様々な阻害要因によって限定されており、一般の人においては、局限されたごく一部の発現しか期待できないとみる。自分の心の中を覗き込んでも正しい良知に到達できるのかはわからない、つまり自分の現在の道徳的判断力の正しさは信用できない、ということになる。そこで、自分の外部に正しさを探索しなければならない、というのが朱熹の立場であった。

「知行合一」理論により地方行政に従事する稀有な政治家(『人民日報』海外版https://peoplemonthly.jp/n6550.html)として世界中から注目を集める馬淵氏にとって、自分の良知を徹底的に信じることは、自身の経験に鑑みても必要なことであるという。しかし、現代社会で様々な判断を行っていく上で、そもそも時代や情勢など外的な要因で「何が正しいか」が大きく変化する以上、「知先行後」である必要もあるという。それに対して私は、どちらかといえば朱子学的な人間であり、外に正しさを求めがちではあるが、それでも最終的な局面では、自分の良知を信じて判断を行うこともある。

王陽明も朱熹も、自身の心の問題に目を向けて、いかに修養を積み重ねていくか、自分だけでなく町中の人々がみな、どのように聖人に向かっていけるのかを考え抜いた。学問を修め、それを政治へと活かし、さらには音楽や絵画などを楽しむが、これらにはすべて「いかにして、良知を有する、本来の人間らしい人間となれるか」というテーマが貫かれている。このような中国の士大夫の姿は、学問を修め政治に活かし、余暇には音楽を嗜む馬淵氏と大きく重なる。

礼楽と呼ばれる中国の伝統的な概念は、修養を重んじる儒家的な思想を背景に持ち、連綿と受け継がれ、現在ではひとつの藝術となっている。音楽は、王陽明にとっては、まさに自ら実践し自らの心に直接的に働きかけることができる重要な手段であるし、朱熹にとっては、自らの心の外にあり客観的に「調和」をみてとれる存在として、やはり重要な意味を持っていた。講演に続く演奏会では、日本古琴振興会(武井欲生氏)による古琴演奏を中心に、 山澤昭彦氏の尺八、平山洋之氏の歌詞による歌も披露された。今回演奏された曲目「孔子讀易」「鳳求凰」「虚空」(尺八)「慨古吟」「漁樵問答」「広陵散」「大哉引」からは、自身の心の道徳的良心をみつめ、社会と向き合い、また大いなる自然の中で、自らの天分を悟る様々な人間の姿が思い浮かぶだろう。

 

 

報告者:田中有紀(東洋文化研究所)