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2021.04.16

【報告】第1回「部屋と空間プロジェクト」研究会

「部屋」とは何か。東アジア芸文書院は、「書院」という「部屋」の中で、日々研究活動を展開している。同じ場所を共有し、志を同じくした者が集い、学ぶ場である。とはいえ、コロナ禍の現状では「書院」に集うことは難しい。そこで私たちは、在宅勤務を始め、私たちの「部屋」にこもり、オンラインで研究に取り組み、仲間たちと交流している。

「部屋と空間プロジェクト」研究会は、我々にとって最も身近な「空間」である「部屋」という概念を手掛かりに、EAAメンバーの関心に共通する点を取り込みながら、「部屋」に関する様々な文献を皆で読み進め、何か新しい学問を提示できないかという思いで発足したものである。前野清太朗氏(EAA特任助教)の提案した「空間プロジェクト」が基盤にあり、高山花子氏(EAA特任助教)の「部屋」というアイディアに啓発を受け、若澤佑典氏(EAAフェロー)に、様々な「部屋」に関わる文献を紹介してもらった上で、316日(火)11時より第1回研究会(EAAセミナールームとZoomのハイブリッド方式)が開催された。

1回研究会は前野氏が報告を担当し、大正時代の住宅論として、有島武郎・森本厚吉・吉野作造著『私どもの主張』(文化生活研究会、1921年)より、吉野作造の論考を取り上げた。参加者は前野氏、高山氏、若澤氏、田中のほか、片岡真伊氏(EAA特任研究員)、孔詩氏(人文社会系研究科)が参加した。

 

 

報告ではまず、文化生活研究会の中核メンバーについての説明があった。有島武郎(1878-1923)は、札幌農学校で新渡戸稲造に教わり一時クリスチャンとなり、卒業後に渡米渡欧してアナキズムに接近した。帰国後札幌で教職につく。『白樺』同人となって作品を発表した。

森本厚吉(1877-1950)は、札幌農学校で有島と友人になり、共著で『リビングストン伝』刊行した。大正11年に「文化生活研究会」を結成し顧問に有島・吉野らを迎える。翌12年には「文化普及会」を設立した。続いて女子経済専門学校設立、消費経済研究所設立、『経済生活』刊行、文化アパートメント建設などの事業に従事した。

吉野作造(1978-1933)も、森本・有島同様、キリスト教系の知識人である。帝大勤務後に渡中・渡欧し、大正2年に帰国した。大正5年の論説で民本主義の概念を提示し、大正7年の米騒動時の朝日新聞筆禍事件より、演説会を通じ広範な支持を集める。大正11年に森本・有島らと「文化生活研究会」を結成するがのち離脱する。

前野氏はまず、『私どもの主張』の「はしがき」を紹介した。「はしがき」は「森本→吉野→有島」の順で掲載されている。冒頭の森本の文章が主張するのは、国民が「精神的にも物質的にも生活の不安に泣いて」いるということであり、森本は、それらを乗り越えて「新社会を建設」することを目指すという。合理化・能率化と精神的自由が同時に目指されているのである。

続いて、明治末年から大正10年代までの政治・社会事象が確認された。吉野作造はこの間、「日本の国体の学理的解明」「頑迷思想の撲滅」「国民生活の安定・充実」を綱領に、たびたび講演会を開いており、1921年設立の「文化生活研究会」もそれに近い路線をとる。報告では会誌『文化生活研究』の初回の掲載文にどのようものがあったかについても紹介された。

そして、吉野による『私どもの主張』掲載の3講演について紹介した。「政治家のあたま」は、民本主義的な主張の延長として市民的存在の育成を企図するものである。「誤られたる本分論」では、我々の生活には物質面・精神面双方の改造が必要であり、これこそが文化生活研究の原因であると論じる。この改造に際して吉野は「本分々々と言って人の活動の自由を阻止」せずに、「其本分を尽した上で、其余力を以て様々なことをやる」べきだとする。「社会主義の新旧二派」では、物質的生活をきちんと充足させた上で、「各々みな天稟を発揮して社会の進歩に貢献する」という人間観によるのが「新しい社会主義」とする。これは、一種のベーシックインカム論でもあるだろう。

そして、前野氏から以下のような論点が提示された。有島・森本の議論に移るに先立って、「合理的」「経済的」に込められた好意的なニュアンスを我々は意識する必要がある。「合理的」「経済的」な文化生活が、「communal」なレベルの恩恵を与えるものとして構想されているのではないか。そしてこうした文化生活は、一方で、民本主義的に「government」を経由すべきものと意義づけられつつも、知識人の「individual」な意思として実現される側面もあるのではないだろうか。

また、報告では、吉野の論旨からやや外れるが「空間」問題と関連して、「朝鮮の共同墓地問題」や、住宅難を解決するために、庭園などをただ壊してしまうのではなく、あくまでも公衆が楽しめるような空間として生かせないかという記述もあった。これは、共同炊事場などを備えた生活共同空間としての「集合住宅」構想、すなわち1920年代の文化アパートメント(文化普及会)、同潤会アパートメント(同潤会)などにもつながるものであろう。

以上の報告を受け、参加者から様々な質問やコメントが寄せられた。吉野の主張は、物質面(住宅や家庭生活の合理化)からの生活の充実を志向する森本にも共通する態度であるが、文化・自然と生活の結合から生活の充実を志向する有島とは、かなり異なる議論のように見える。森本や有島の論考とどのような関連を持ちうるのだろうか。これについては今後の研究会でさらなる検討が必要であろう。

また会誌『文化生活研究』に掲載された様々な論考は、テーマが多岐に及んでおり(育児法や音楽、栄養論、園芸、衛生など)、一見バラバラにしか見えない問題意識を抱えた執筆者たちが目指した理想である「文化生活」とは一体何なのだろうか。また、この雑誌は、一体どのような読者層を想定し、誰に向かって何を語りかけようとしているのだろうか。

 

 

EAA30年後の世界に向かい様々な研究・教育上の取り組みを行っている。おそらく吉野たちも、30年後あるいは100年後の世界に向かって「文化生活」を主張した。彼らの理想とする世界を実現するために、彼らが注目したのが「明日の私の生活」である。それは具体的には、文化アパートメントなどの住宅構想であり、「合理的」な家庭経営であり、つまるところ、主に「部屋」という「空間」の中で日々繰り広げられる「生活」の改善である。吉野らが「生活」に注目したのはなぜなのだろうか。次回も続けて、大正の住宅論をとりあげながら、この問題について考えていきたい。

(田中有紀・東洋文化研究所准教授