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2025.11.25

【報告】陳嘉映教授:「AIは意識あるか?」

 2025年1111日、東京大学東アジア藝文書院(EAA)は、中国の著名な哲学者である陳嘉映氏(首都師範大学)をお招きし、「AIは意識あるか?(人工智能會具有意識嗎)」と題した講演会を開催した。本会では、王欽氏(東京大学)が聞き手を務めた。陳氏はハイデガー、ウィトゲンシュタイン、ラッセル、バーナード・ウィリアムズといった西洋哲学の巨匠たちの中国語翻訳者としても知られ、その学術的射程は現象学、言語哲学、そして政治哲学にまで及ぶ。陳氏は冒頭、AIと意識をめぐる議論が紛糾する主たる要因は、定義の曖昧さにあると指摘した。陳教授はまず、日常的な文脈において相互に交錯する「意識」の語義について考察を行った。彼によれば、意識が指し示す範囲は極めて広い。第一に、昏睡や麻酔、睡眠、そして目覚めるといった異なるレベルを含む生理的な側面としての意識状態がある。第二に、「気づき」や「注意」といった認知的な側面である。これには、泥酔した運転手が熟練した運転操作を行いながらも道中の記憶を欠いているような無意識状態や、思考に没頭するあまり周囲への意識が不完全になる状態などが含まれる。そして第三に、意図的な行為と無意識的な反射を区別するための指標としての、行為の側面における意識である。

  

 続いて陳氏は、意識は多くの場合「感覚」や「知覚」と近似し、相互に置換可能な場合が多いけれど、両者の間には決定的な差異が存在すると論じた。 まず、感覚は単独の経験として成立しうるが、意識は「全体性」を持つという点である。例えば我々は「足の感覚がない」といった場合が存在するとしても、意識について語る際は通常、その人が意識を持っているか否かという全体的な状態を指す。すなわちこの意識の全体性とは、先験的に存在する全体ではなく、視覚や聴覚といった諸感覚の相互的なつながりや結集、そして協調によって定義されるものである。この相互的な疎通と協調こそが、無意識的な記憶を他の感覚と結びつけ、意識的な記憶へと変換することを可能にする。

 もう一つの重要な差異は「正誤」の問題である。陳によれば、感覚には正誤がある。例えば、環境気温が高いのに寒いと感じる場合、身体の異常によってその感覚が「間違っている」可能性がある。しかし、意識そのものには正誤がない。陳は、古代ギリシアの哲学者が真理を探究する中で、感知を理知へと発展すべき低次の認知と見なしたのは、まさに感覚が正誤を孕むからであると指摘した。生物にとって感覚の正誤は、その生存利害と高度に関連している。 これに対し、現代の意識研究は「心理学化(Psychologization)」という転回を迎えているとは論じる。この転回において、意識はもはや「私が何かを意識する」という知覚活動としてではなく、それ自体がひとつの「状態」として扱われる。この転回により、科学研究における価値中立の原則に則り、意識という状態そのものは正誤を問われないものとされているのである。

 意識の定義を明確にした上で、「AIは意識を持ちうるか」という本講演の核心的な問いに対し、陳氏は「持ち得ない」と明確に回答した。 氏は人間の理知の発展を三つの段階に分類する。第一に、感覚のみの段階(ゾウリムシや乳児など)。第二に、「感覚を伴う理知」の段階であり、ここでは理性的な思考が依然として身体感覚と結びついている。そして最終段階が、「感覚を伴わない理知」であり、感覚から切り離された純粋な推論が可能となる。陳氏は、意識とは本質的に感覚と結びついたものであり、感覚を伴わない理知とは結びつかないと断言する。したがって、AIやチューリングマシンのような「感覚を伴わない理知」がいかに発展し、計算能力で人類を凌駕しようとも、そこには感覚が欠如しているため、意識が宿ることはない。

 また、陳氏はデータ量の増大に伴って意識が自然発生するという「創発(Emergence)」の概念についても否定的な見解を示した。意識の発生は創発とは無関係であり、感覚における正誤判断や交流に由来するものである。AIは物理的な信号に直接反応するだけであり、光の周波数を「赤色」という人間の感覚に翻訳する必要もなければ、そうする理由もない。さらに、意識の生成には「主体」が必要であり、主体には細胞膜や人体のような、内部の相互作用を外部と区別するための「物理的な包み」が不可欠である。AIのセンサーは主体の一部ではないため、AIは感知する能力を持たない。ゆえに、純粋なプログラムや論理に従う「感覚を伴わない理知」であるAIは、意識を生み出すことはできない。意識に不可欠な、利害と真偽・正誤に基づいて判断・統合を行う「感覚」の基盤を欠いている以上、その答えは自明であると陳氏は説く。 陳氏は最後に、AIが意識を持つか否かという結論以上に重要なのは、その背後にある思考の意義と価値を整理することであり、それによって「意識とは何か」という哲学や心の問題をより深く理解し、思索することであると総括した。

 質疑応答では、EAA院長の石井剛氏が、本講演がAIというトピックを通じて私たち自身の意識を再考する絶好の機会となり、哲学的問いが再びテクノロジーの最前線に押し出されたことへの喜びを表明した。石井氏は仏教の唯識説の視点から、意識とは単一の主体が支配するものではなく、相互に奉仕し合うプロセスであると指摘した。陳氏はこれに強く賛同し、自身の「諸器官の相互奉仕に基づく意識の全体性」という見解と合致すると応じた。 続いてフロアからは、AIが意識を持っているように感じられ、そして問われているのは、言語現象や社会的な法権の問題と深く関わっているのではないかという指摘がなされた。陳氏は、AIと言語現象の密接な関連を認めつつ、AIは意識を持たずとも、人間とは全く異なる経路を経て、人間の作品と区別がつかないほど高度な結果を生み出すことができ、それが芸術家の未来に深刻な問いを投げかけていると述べた。

 陳氏はAIが感覚的基盤を欠く以上、意識を持つことはないと断言したが、本講演の核心は、私たちが意識の全体性や正誤性、そして感覚や利害との深い結びつきを再審することにあった。AIはあくまで人間が使用する道具であり、AIの意識をめぐる論争は、最終的には私たちが交流や言語現象を通じていかにして意識を付与し、あるいは感知しているのかという問題に帰着する。本講演は、人間の精神と哲学の本質を理解するための良い契機となった。

報告:劉仕豪(EAA リサーチ・アシスタント)
写真:新本果(EAA リサーチ・アシスタント)