2025年11月10日(月)、東アジア藝文書院(EAA)の主催で、東京大学駒場キャンパスKomcee East K011にて、詩人・翻訳家の関口涼子氏による講演会「誰が翻訳を信用しているのか:二言語での自己翻訳について」が開催された。本会では、國分功一郎氏(東京大学)が司会を務めた。

関口氏は、日本語で生まれ育ち、大学でフランス語を学んで以降、長年フランスに在住し、フランス語と日本語で詩や散文などの創作活動を行っている。その創作活動の中では、日本語とフランス語を並行して書き進める時期や、フランス語と日本語で異なるテーマを持つ別々の作品が並行して存在する時期もあったという。本講演では、ここ数年間の日本語で執筆した文章をフランス語に自己翻訳した際の経験を振り返りながら、これまでのフランス語で執筆、出版した本を日本語に自己翻訳した経験とも比較して、言語と翻訳の関係に対する発見、自己翻訳の意義について論じられた。
フランス語から日本語に自己翻訳をする時、自身の作品を「上手に」訳せないと悩むことも多い。かつてはそれがフランスに暮らし日本語から遠ざかっているからだと思っていた。しかし、日本語で書いた文章をフランス語に翻訳するという初めての試みをした際にも、同様の難しさに直面し、フランス語で書くときにはあるはずの、自分特有のフランス語の文体を失ってしまったような感覚に襲われたという。これらの経験を通して、関口氏は、この困難が言語との距離感や母語であるかどうかにかかわらず、ある作品を第二の言語に訳す際に起こる普遍的な現象であると気づいた。さらに、それぞれの創作言語には、自分の固有の文体があることも意識するようになった。興味深いことには、AI翻訳を試してみた時にも、自動翻訳では自分の文体のリズムや思考の固有性によって選択された、一般的な言語規範から外れた言葉の使い方は反映されていなかったという。つまり、二言語で書いていても、実は「日本語の創作言語」「日本語に翻訳する際の言語」「フランス語の創作言語」「フランス語に翻訳する時の言語」という四つの創作言語を持っており、それぞれに固有の文体が存在しているのである。

翻訳にはそもそも、翻訳された言語に合わせてその内容が変わってしまう可能性が存在する。そのような意味では、翻訳はある種の「いかがわしさ」を持つ。それが他者翻訳であれば、「翻訳文学」として、オリジナルと翻訳という関係性で理解することもできる。しかし、作家自身が自己翻訳を行った場合には、オリジナルが二つできてしまう「危険性」が生じる。オリジナルが二言語で存在することに対する「言語」の抵抗こそが、自己翻訳をする時に直面する難しさの正体なのではないかと、関口氏は指摘した。そして、「オリジナルは一つである」と表明しようとするテキストと交渉していくのが、自己翻訳という作業なのではないかと述べた。
このような難しさがありながらも、自己翻訳を続ける理由は二つあるという。一つには、その言語が属する文学に責任を持つためである。関口氏の場合であれば、フランス語の空間で実践される文学に対して介入し、フランス語の文学が持つ問題意識を共有し、責任を担うということである。そして関口氏は二つ目の理由として、作家よりも言語のほうが常に力を持っていると感じ続けることが重要であると指摘した。母語ではないフランス語で創作する時には、その文章が正しいのかという感覚的な確信は得られず、人工的に文章を立ち上げることを余儀なくされる。言語は自明のものでなく、自分が言語をコントロールしていると思い込まないことが、言語との健全な関係ではないか。自己翻訳という作業は、作家にとっては、母語さえも「他者」の場所に移動させてしまう稀有で例外的な経験であり、そこに文学的な意味があるのではないかと、関口氏は強調した。
質疑応答では、詩の翻訳や作品中のタイトルの翻訳、ベンヤミンの純粋言語、複数言語による創作活動と作者の身体感覚の関係、母語の定義などについて、活発な議論が交わされた。
報告:新本果(EAA リサーチ・アシスタント)
写真:洪信慧(EAA リサーチ・アシスタント)