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2025.05.28

【報告】UIA THE LECTURE 第1回

2025年5月23日15時より、東京大学東洋文化研究所3階大会議室において、UIA The Lecture 第1回を開催した。UIA The Lectureは、今年度より新たに始動したプロジェクトであり、世界各国の著名な研究者を招聘し、講演を通じて知見を深めることを目的としている。その記念すべき第1回目の講演者として、世界的に高名な日本学者であるRichard Bowring氏(ケンブリッジ大学名誉教授)をお迎えした。司会は柳幹康氏(東洋文化研究所)が務めた。講演に先立ち、中島隆博氏(東洋文化研究所所長)よりBowring氏のこれまでの業績に関する紹介があった。

講演タイトルは「ケンブリッジ大学と日本研究」であった。イギリスにおける高等教育の現状、政府との関係と資金の問題、大学の歴史と東洋学部の位置、および東洋学部における日本研究の位置、ならびに、古典に重点を置いた教育、第二次世界大戦の影響、自伝、サッチャー政権からの重圧と危機、オックスフォード大学における日本研究との協働、研究資金確保のための寄付金を募るための活動など、1時間半という短い時間では到底語り尽くせないような膨大な内容を、バウリング氏は一つの物語として巧みに編み上げながら、時折ユーモアを交えつつ、聴衆の集中が途切れる暇もないほど魅力的な語り口で展開した。1965年に日本研究の道に足を踏み入れて以来、現在に至るまでイギリスにおける日本研究の歴史を体現してこられた先生だからこそ語ることのできる内容であったと深く感じさせられた。

以下に講演の要点を整理する。

イギリス高等教育における資金問題

かつて、イギリスの高等教育は国庫によって賄われていた。そのため、政治的介入の余地もあったが、イギリス社会には学問の自由を尊重する意識が根強く、研究者がどのように教育・研究を行うかについて、政府が干渉することは極めて稀であったという。

氏の学生時代の1960年代には学費が無償で、所得に応じた生活補助金も支給されていた。この制度が維持できたのは、当時大学進学率が4%程度と極めて低かったためである。しかし1980年代には進学率が14%にまで上昇し、国家による全額奨学金制度は撤廃された。以後、無償の奨学金は貸与型(ローン)に切り替わり、卒業後一定収入を得た段階で返済義務が生じる仕組みとなった。

さらに2010年には学費が年間約170万円にまで上昇し、学生の経済的負担は増大した。しかも、学費高騰にもかかわらず、大学の教員数削減などにより教育の質はむしろ低下した。現在、大学進学率は約40%に達しているが、多くの学生が多額の債務を抱えて卒業している。高等教育の経済的価値に対して、国民の間で疑問の声が上がっているのが現状だ。

大学の歴史と東洋学部の形成

カレッジが歴史に登場したのは13世紀初頭のことであり、その目的は優秀な聖職者を育成し、教会内で高い地位に就かせることで、設立者(国王などの権力者)のために祈りを捧げさせることにあった。このように、大学はその設立当初においては、極めて宗教的性格の強い集団であったことが分かる。

当時の教育内容は、ラテン語、哲学、自然科学、文学、そして当然ながら聖書研究が中心であり、後にはギリシャ語やヘブライ語も加えられた。ケンブリッジ大学は1209年に創設され、当初は教授が国王によって任命された。教授職の新設は、そのまま新たな講義の設立を意味していた。現在の教授会に相当する組織が、当時のカリキュラムの編成を担っていた。

1860年の東洋学部における教授会の記録によれば、当時「東洋学」とは、ヘブライ語(キリスト教研究)、アラビア語およびペルシア語(イスラーム研究)、サンスクリット語(植民地行政)によって構成されていた。日本語の講義は1941年に初めて開設されたが、その設置の背景には第二次世界大戦が関係していた。当時ケンブリッジで古典語を専攻した優秀な学生が選抜され、6か月間の特訓を経て、日本海軍の暗号解読に従事させられた。その一人であったEric Ceadel氏は、のちにケンブリッジ大学で初めて日本語を教える教授となる。その後、日本語担当教員は最大で3名まで増員されたが、約20年間で卒業生はわずか9名にとどまり、日本研究は必ずしも人気のある分野とは言えなかった。

教育内容は古典に重点を置き、初年次から『万葉集』や『古事記』などの難解な古典を読み込むことが求められた。試験では英語の文章を日本語の古文に翻訳したり、訓読文から漢文を復元したりするなど、高度な訓練が課されていた。こうした厳格な教育課程を修了した卒業生は、イギリスやオーストラリア等の諸機関で活躍した。

自伝

1965年はケンブリッジの日本語学部にとって記念すべき年である。この年、例年にない多さとなる6名の新入生が一挙に入学したためである。そのうちの1人が、まさにBowring氏であった。当時の授業は会話よりも読解に重点が置かれて構成され、学生数の急増に伴い、教材選定の際には「6部ある本」を探すという、笑うに笑えない逸話が残されている。

1年次の終わりには幸運にも日本を訪問する機会を得たが、National Geographicによって支援されたプロジェクトへの参加という形で、下関から東京までカヤックで移動するという、無謀な旅であった。その際、最初に覚えた日本語が「海上保安庁」「転覆」「バカ」であったという、ユーモラスな逸話も披露された。

氏は1968年に卒業後、いったん民間企業に就職されたが、日本研究への情熱を捨てきれず、再びケンブリッジに戻り、博士論文の執筆に取り組まれた。以後、メルボルン大学、プリンストン大学などを経てケンブリッジ大学に帰任した。

教授としての主要な役割の一つは研究費獲得であり、週に一度ロンドンに赴いて資金提供者を探す日々を送った時期もあった。多くの人々からは、「本来は政府が行うべきことであり、なぜ民間企業が支援しなければならないのか」といった否定的な声もあったという。加えて講義も担当していたため、個人研究に割ける時間は極めて限られていた。しかし、当時の日本経済の好況に支えられたこともあり、最終的には日本語学部の存続を可能にする基盤を築くことに成功した。現在のケンブリッジ大学日本語学部が教授の努力によって維持・発展されてきたことが窺い知れる。

感想

本講演は、日頃なかなか聞くことのできない現実的かつ率直な内容に満ちており、近年URA(University Research Administrator)への関心を持ち始めた筆者にとって、非常に新鮮で興味深いものであった。

講演後、今回バウリング氏を招聘した馬場紀之氏(東洋文化研究所)や、他の参加者から多くの質問が寄せられた。筆者もまた、「研究者として社会との接点を意識し、社会的意義のある研究を通じて自身の専門分野を活性化させることについて、どのようにお考えか」と質問した。これは、学問が人類や社会に貢献すべきだという信念を抱きつつも、そのような志向がかえって客観的な研究活動の妨げとなるのではないかという、筆者自身が常々抱えている悩みにも関わるものであった。

氏はその質問に対し、「答えるのは難しいが、研究においてはそんなことを考えすぎる必要はない。自分がやりたい研究に全力で取り組みなさい。未来のことは心配せず。道は自然と開けるものです。」と述べられた。なぜか、その答えを聞いて心が軽くなった。

人類の役に立つ研究とは、意図してできるものではないのかもしれない。答えは外ではなく自分の中にある。自分自身もまた人類の一員。自らが納得でき、自ら感動する研究をすることが、同様の悩みを持つ他者に手を差し伸べることに繋がるのではないか——そのような思いを胸に刻み、本報告を締めくくりたい。

報告者:宋東奎(EAAリサーチ・アシスタント)