2025年7月7日、東洋文化研究所大会議室にて、「UIA THE LECTURE」の第2回が開催された。「UIA THE LECTURE」は、世界的に著名な研究者を講師としてお招きし、その知見をお話頂く場である(第1回の様子はこちら)。今回は、ソウル大学教授/東京カレッジ招聘教授の梁一模氏をお招きし、お話を伺った。
「“ウリ”の哲学を求めて——現代韓国哲学の第一世代・朴鍾鴻」と題したご講演では、哲学者・朴鍾鴻(1903−1976)の思想について、その核心である「“ウリ”の哲学」についてお話頂いた。講演に先立ち司会の中島隆博氏(東洋文化研究所所長)が紹介したように、朴鍾鴻は、1968年、朴正煕政権のもと起草された国民教育憲章に深く関わった人物である。1970年には大統領特別補佐官を務めるなど、政権の中枢を担った。このような来歴を背景に、朴鍾鴻は、朴正煕による軍事独裁政権の国家主義的な性格を哲学者として下支えしたとして、シビアな批判に晒されてきた。他方で、韓国における民族主義を考える上で、重要な哲学者であることもまた確かである。このように、先行研究においても賛否両論が存在する中で、梁氏は、朴鍾鴻が用いた「ウリ(=我々)」という概念に焦点を当て、朴鍾鴻の思想を明らかにすることを試みた。
京城帝国大学哲学科が設立された1926年の3年後である1929年、朴鍾鴻は同学科に入学した。阿部能成、田辺重三、宮本和吉の薫陶を受けた彼は、ハイデガー研究者としてキャリアを開始した。「ハイデガーにおける地平の問題」(1935年)と題した論文が雑誌『理想』に掲載されるなど、その滑り出しは順調であった。同時に朴は、李氏朝鮮を代表する朱子学者である李退渓(1501−1570)に強い関心を寄せていた。「退渓の教育思想」(1924年)発表後、その研究を大きく展開する機会には恵まれなかったが(哲学科在籍中、退渓研究に進みたかったが周囲の様子を見て諦めた、とのちに語った)、晩年『韓国の思想的構想』(1963年)、『韓国思想史:仏教思想篇』(1972年)、『韓国思想史:儒学篇』(1977年)をまとめるなど、「韓国」に根ざした思想・哲学を創出することに並々ならぬこだわりを見せた。「ウリの哲学」という概念は、このこだわりを端的に表しているとも言えよう。またその背景として、高校時代における三一独立運動への参加という経験があったことも念頭においておく必要があると、梁氏は指摘した。
「ウリの哲学」という概念は、「〈哲学すること〉の出発点に関する一疑問」(1933年)、「〈哲学すること〉の実践的地盤」(1934年)にて、まず打ち出された(この二つの論文が掲載された雑誌『哲學』(哲學研究會)は、朝鮮語(漢字とハングル)で発行された初めての哲学学術誌であったことも、申し添えておこう)。
「ウリの哲学」とは実にシンプルな概念である。要するに、「ナ(私)」ではなく「ウリ(我々)」を出発点とした思考によって展開される哲学の創出を目指すべきである、という考え方だ。しかし、ここで言う「ウリ」とは誰を指すのであろうか?梁氏は、同時代言説である三木清の「マルクス主義と唯物論」(1927年)に現れる「εμείς」(Emeis、ギリシャ語で「我々」)との比較や、戦後「階級闘争か、民族か」という形式で現れる社会主義思想との対決が、朴の思想的な軸を形成してきたであろうことに言及した。
講演後のディスカッションの話題は多岐に亘った。「ウリ」という言葉が現在、北朝鮮で多用されていること、朴が晩年『韓国思想史』の中でなぜ仏教と儒教にフォーカスしたのか等々、フロアと梁氏の間で白熱した議論が交わされた。
筆者が感じたのは、「ウリ」という概念が、本来ずれを含みながら競合するはずの社会・民族・国家という概念が、独特な形式で接合された結果、提唱されたものなのではないか、ということだ。このような接合は、京都学派や戦後の東アジアの他の地域の言説においても見られるものであるだろう。先にも触れた、階級か民族かという闘争的な問いに対して、弁証法的に解答を出そうとするとき、このような複合体が構想されるのではないか。筆者のフィールドである沖縄近現代思想史においても、同様のケースを見出すことができそうだと予感する(徳田匡『〈沖縄学〉の認識論的条件』は、伊波普猷の「日琉同祖論」に即して、帝国日本の知の体系をこうした角度から分析している)。思わぬ研究のヒントを得ることができた、貴重なひとときであった。
報告者:崎濱紗奈(EAA特任助教)
