2026年1月31日(土)14時より、東京大学東洋文化研究所第一会議室において、UIA THE LECTURE 第5回(第51回東アジア仏典講読会)がハイブリッド形式にて開催された。今回は、張超氏(École pratique des hautes études、Permanent Research Associate)が「宋元禪寺的行遊與棲止(宋元禅寺における行遊と棲止)」と題する講演を行い、小川隆氏(駒澤大学教授)が通訳を担当した。また、Laurent Van Cutsem氏(Ghent University、Postdoctoral Fellow)が「《寶林傳》卷十逸文研究:南嶽懷讓傳與唐宋禪宗史書(『宝林伝』巻十の逸文研究――南岳懐譲伝と唐宋禅宗史書)」と題する講演を行い、柳幹康氏(東京大学東洋文化研究所准教授)が通訳を担当した。当日の参加者は、対面23名、オンライン延べ15名であった。
張超氏の発表では、北宋末に成立した『禅苑清規』や、元代に成立した『勅修百丈清規』などの文献を通じて、宋元代における禅僧の寺院間往来、すなわち「行脚」や「遊山」の実態が紹介された。最初に、行脚僧の携行品に注目し、唐代と比較して宋代には携行物が増加・具体化している点が指摘された。その中でも、個人用の収納箱の鍵(「函櫃小鏁」)が含まれている点は、特に注目に値する。これは、仏教が中国に渡来して以降、無所有を理想とするインド仏教的価値観からやや変容し、個人の私有物を一定程度認める方向へと変化していったことを示す一例である。また、『禅苑清規』には、個人用収納箱の使用に関する規定も確認され、私物の紛失・盗難防止のみならず、私有物の管理を公的な監督下に置こうとする意図を読み取ることができた。
さらに、外部から来訪した行脚僧が寺院に滞在する際の規則についても検討が行われた。短期滞在(通常三日以内)の場合は寺院の正門(山門・三門)の近くに位置する「旦過」寮に滞在する。一方、長期滞在(安居修行や住持職への就任などのため)の場合には、度牒(僧侶としての身分証明書)を提出して合法的身分であることを確認し、戒臘(受戒してからの年数)に基づいて泊まる場所が決定される。また、住持をはじめとする各役職者への挨拶や茶会を通じて、寺内社会に自然に融和していく過程が存在したことも示された。大規模で人気の高い寺院ほど、また時代が下るにつれて、長期滞在には住持の許可が必要となる傾向が強まる。こうした規則が実際にどのように運用されていたのかについては、現在、小川隆氏、張超氏、ディディエ・ダヴァン氏(国文学研究資料館教授)らによって訳注作業が進められている『大慧普覚禅師宗門武庫』に具体例を見いだすことができる。
Van Cutsem氏の発表は、中国禅宗史書、特に『宝林伝』『祖堂集』『景徳伝灯録』『天聖広灯録』を対象とした精緻な文献学的検討を通じて、それぞれの成立関係を追究するものであった。とりわけ、最も早期に成立したと考えられる『宝林伝』は、全体が現存しておらず、これまで十分な検討が困難であったが、本発表では、日本に伝存する『景徳伝灯鈔録』に引用された『宝林伝』第十巻の逸文、なかでも六祖慧能の弟子であり馬祖道一の師にあたる南岳懐譲伝に焦点を当て、後代の禅宗史書に見られる懐譲伝との比較が行われた。
その結果、『宝林伝』の内容が『祖堂集』および毘盧蔵本『天聖広灯録』に継承される一方で、『景徳伝灯録』および金蔵本『天聖広灯録』では省略されている点が明らかにされた。また、懐譲伝が釈尊誕生説話をモチーフとしている点や、後代の臨済宗の影響によって『祖堂集』が懐譲伝を拡張したとする先行研究に対し、当該要素はすでに先行する『宝林伝』に見られること、さらに、『景徳伝灯録』において先行史書の記述が大幅に省略されている背景には、それらを史実とは認めなかった可能性があること、ならびに『天聖広灯録』における毘盧蔵本と金蔵本の差異などについても、追加的な考察が示された。
結論として、本研究は、禅宗研究において一次資料に対する文献学的検討の重要性を改めて強調するものであった。とりわけ、SAT大正新脩大藏經テキストデータベースやCBETAの続蔵経といった、現在広く利用されているデジタル資料についても、底本が何であるのかを常に意識し、可能であれば公開画像などを通じて原本を直接確認する必要があるとの提言がなされた。
張超氏の発表を通じて、戒律や清規の研究が、高邁な僧侶たちの「日常」の姿を具体的に描き出す点において、強い関心を喚起する分野であることを改めて認識した。力士の相撲部屋での生活や、アインシュタインの日常習慣に人々が興味を持つように、ある分野の専門家がいかなる日常を送っていたのかという問いは、誰にとっても魅力的なテーマである。こうした研究を仏教の本質、すなわち「悟り」からやや離れた研究と評する見方もあるが、悟りが個々の日常と切り離せないものであると説く東アジア仏教の立場を踏まえれば、決して本質から逸脱した研究とは言えない。日々の鍛錬や栄養管理なしに横綱が誕生しえないのと同様に、禅僧の日常生活に関する探究は仏教とは何かを総体的に理解するために不可欠な研究であり、今後のさらなる発展が期待される。
Van Cutsem氏の発表は、仏教研究において一次資料に対する文献学的検討がいかに重要であるかを強く印象づけるものであった。とりわけ、発表で扱われた禅宗文献は、精密な文献学的検討を欠けば、文献間の先後関係や各文献の性格を誤って理解する危険があることを理解させてくれた。細かい文献学的検討は、多大な労力を要する一方で、その成果が必ずしも結論に大きな影響を与えない場合も多く、軽視されがちな作業である。また、すべての歴史資料が現存しているわけではない以上、完全無欠な文献学的結論を保証できない点も、研究意欲を削ぐ要因となりうる。しかしながら、Van Cutsem氏の研究に触れるたびに、誠実かつ緻密な作業こそが研究者の本分であるという刺激を受ける。
なお、発表者が無批判な信頼に警鐘を鳴らしたデジタルデータベースの一つであるSAT大正新脩大藏經テキストデータベースについては、報告者自身も一部関与している。現在、同データベースでは全文テキストの再校正作業に加え、各文献の底本および対校本の画像を容易に参照できるようにする改良が進められている。Van Cutsem氏のような研究は、こうした作業にとっても重要な指針となる貴重な成果であるといえよう。
時代が急速に変化するなかで、仏教学においても、文献資料のデジタル化はもとより、新たな情報技術の導入が一層加速している。世界各地では貴重なデジタル資料が日々更新されており、Laurent氏の研究も、こうした近年の情報技術の発展なくしては成立し得なかったという。こうした時代的潮流を前にして、その限界のみを論じ、デジタル化や情報化そのものを拒絶する姿勢は、もはや現実的な選択肢とは言えない。新たな変化の限界を十分に認識したうえで、先頭に立って改良・活用し、誠実に探究していく姿勢こそが、今後の研究者に求められるであろう。そのためには、学び続けることこそが最善の道であると考えつつ、今日もまた報告者の胸中には、静かな焦燥感が去来している。
報告者:宋東奎(EAAリサーチ・アシスタント)