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2023.07.04

大江健三郎さんと駒場のことなどお話させていただきます。
――山内久明先生への手紙――(工藤庸子)

東京大学東アジア藝文書院(EAA)では、世界文学ユニットの企画の一環で、大江健三郎氏がノーベル文学賞受賞時のスピーチの英訳をされたことでも知られる、駒場時代の同級生、英文学者の山内久明先生(東京大学名誉教授)と、仏文学者の工藤庸子先生(東京大学名誉教授)の往復書簡を、数回にわたって掲載いたします。

 

【1】山内久明先生     

工藤庸子

 大江健三郎さんが亡くなられて4箇月が過ぎました。生涯のご友人を喪ったことの寂寥のなかにあり、あらためて深い感慨に浸っておられるのではないかと拝察いたします。フランス文学のプルースト、イギリス文学のジョイスに並ぶ、真に偉大な小説家を日本の近代文学はついに持った、と……

じつは山内先生の貴重なお言葉を、なんとか公の場に解き放つ方法はないものか、と昨年の春から考えつづけておりました。たとえば《イェイツ、ジョイス、エリオットとの大江さんの付き合い方は、「影響」ではなく、一種の「取り込み」である》とのご指摘。英語の動詞appropriateが適合するとの説明が添えられており、わたくしは自身の拙い本(『大江健三郎と晩年の仕事(レイト・ワーク)』2022年、講談社)が、思いがけず力強いコダマを呼び覚ましたことに、胸をときめかせたものでございます。

その時にいただいた懇切なお手紙が機縁となり、駒場のEAA「世界文学ユニット」が今年12月に開催を予定している「追悼・大江健三郎」シンポジウムとの、いわば橋渡し役をつとめさせていただくことになりました。じつは企画に携わる若い研究者たちに山内先生のことをお話しましたところ、12月のシンポジウムにご登壇いただくのはむずかしいとしても、せめてインタヴューをお願いしよう! などと、一気にテンションが上がり、その後、冷静にもどりました(笑)。先生ご自身のご体調のこと、ご家族様のことなどを考えあわせ、いちばんご負担の少ない方式で――つまり手紙の文体でわたくしが書きましたものを、先生に内容をご確認いただきながら、順次ブログとしてアップするという方式で――ひとまずスタートさせてみたいと存じます。駒場時代の大江さんの思い出や、大江文学をめぐる先生のお考えなどを、わたくしが先生にお訊ねし、先生の応答を反映しつつ記事を作成する、ということを考えております。

まずは大江さんがノーベル賞を受賞なさってまもなく、山内先生が1995年初めの「教養学部報」に寄せられた文章を、あらためて公開させていただきます。添えられたチャーミングな写真は、学ラン・革靴の四国の「木の精」? 山内先生のご説明によれば、《東大美術部に属していた高嶋勇さん(四人組の一人)が撮影、1954年12月、場所は駒場銀杏並木の外れ、旧同窓会館近くであったかと記憶します。大江さんにとっては、四国の森の木こそが重要でしたが、1954年冬の駒場と連結される象徴的な意味があるように思えます》とのこと。

『教養学部報』1995年1月18日発行 第390号 山内久明先生著「「初めの終わり」あるいは「終わりの初め」〜懐かしい駒場の大江健三郎」

《「初めの終り」あるいは「終りの初め」~懐かしい駒場の大江健三郎》と題された山内先生の記事を今回のブログに添えて掲載いたしましたのは、駒場のクラスメートだったお二人のキズナを若い世代に想像してもらいたいからでもあります。いずれぜひ、《昭和29年入学フランス語未修》クラスの名高い「四人組」のお話をお聞かせくださいませ。さらに、それだけでなく、先生のご文章には、大江文学の基底にあるのは英文学? それとも仏文学? という問いにもかかわる、重要な展望が示されていることに、注意を促したいのでもあります。

それというのも、何人かの尊敬すべき仏文系の先輩方の見立てによれば、大江さんは仏文の卒業生ではあるけれど、じつは「英国モダニズム文学の人」……ということらしいのです。本当のところは、英仏両方の文献を、途方もない密度で読んでおられる、ただし、その辺りのことを饒舌に語ろうとは決してなさらなかった、というのが、わたくしの直感ではありますが、この容易ならざる問題は、山内先生のお話をうかがいながら、追い追い考えてみたいと存じます。

戦争のために文化的にも長く封鎖されていた日本から、大江さんとほぼ同世代の若者たちが一斉に、海外に留学するようになったのが、1960年代です。仏文出身者でいえば、渡辺守章先生、阿部良雄先生、蓮實重彦先生などがパリに滞在し、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ロラン・バルト、ジャック・デリダなどの、めざましいデビューという出来事に遭遇することになりました。大江さんの用語を借りるなら、そこは《沸騰的なような》新しい批評・新しい哲学の現場だったと思われます。

山内先生は1962年にコロンビア大学に留学、翌年、カナダのトロント大学に移られてノースロップ・フライ教授のもとですっかり「フライ熱」に罹って帰国され、周囲に「感染」を広められたとか……大江さんも、その時の「感染者」のひとりではないか? とわたくしは久しい以前から自問しておりました。その推測に裏づけが得られた理由のひとつは、山内先生とのメールのやりとりのなかに、《1960年代、ノースロップ・フライは北米の学界では教祖的存在だった》という趣旨のお言葉があったこと。フランス系の文学研究が「ヌーヴェル・クリティック」の若々しい機運に昂揚していた時期、英語圏ではノースロップ・フライが脚光を浴びていた、という構図が、初めて見えてきたような気がいたします。しかも、このカナダ人の批評家は、大江さんが好きなガストン・バシュラールの『火の精神分析』英語版に序文を書いたりしていますしね。視野の広い、筋金入りの碩学を、大江さんはしっかり見抜いて敬愛する方だったのではないでしょうか。

それともうひとつ、大江文学の若い研究者・服部訓和さんの論考「大江健三郎におけるウィリアム・ブレイク受容 : フライによるブレイク」に快い刺戟を受けたのでもあります。日本文学を含みこむ世界文学という大きなパースペクティヴのなかで、関連する文献を丁寧に読みこみながら大江文学の出発点を探るという地道な作業は、本当に大切です。次世代の聡明な研究者たちに期待したいと思います。

さて、大江さんが若くして「フライ熱」に罹ったのではないか、と推察する三つ目の大きな理由――晩年の大作『憂い顔の童子』のヒロインであるローズさんが、長江古義人(=大江さん自身の姿が投影された老作家)についての博論を準備しているアメリカ人の女性研究者で、ほかならぬノースロップ・フライの弟子でもあるという設定は、タダゴトではない、と感じております。大江さんの小説では、さりげなく記された一冊の本の名、一人の作家の名にも、読み解くべき深い意味がある。つまりローズさんの登場には、20世紀最大の批評家・文学研究者へのオマージュという含みがある。そこに永年の友人である日本の英文学研究者への挨拶を見てとることもゆるされるのではないか、と。

そうしたわけで、大江さんが「文学」と「神話・伝承」の関係をどのように理解しておられたか、その根っこにあるものを捉えるためには、ノースロップ・フライの「神話批評」に立ち返ることが重要だと思うわけなのでございます。

ノースロップ・フライ『批評の解剖』書影

山内先生が留学先のトロント大学から戻られてまもなく、日本英文学会の全国大会においても、1966年と1967年、2年つづけて「批評家としてのフライ」がシンポジウムで取り上げられ、先生が講師のひとりをつとめられたとうかがいました。代表作Northrop Frye, Anatomy of Criticism : Four Essays, 1957, Princeton University Pressの邦訳『批評の解剖』は、1980年、海老根宏・中村健二・出淵博・山内久明の諸先生による共訳として、法政大学出版局から刊行されました。山内先生は、10ページにおよぶ周到な「解説」を執筆され、「フライ熱」という言葉を含む「訳者あとがき」も担当なさっておられます。「特殊用語一覧」なども添えられた見事な日本語版を、必読書として掲げることで、しめくくりとさせていただきます。

                   

2023年7月4日 工藤庸子