百年後のわたしたち
今年のサマー・インスティテュートは、中国は浙江省の紹興市で9月1日から5日にかけて開催されました。気候観測史上の記録を大きく塗り替える強烈な猛暑——もはやこれは人間の生物的特性の限界を突き抜けているのではないでしょうか——のなかでの訪問でした。最初に白状しておくと、東京から上海経由で紹興に向かう途上、わたしはボードリヤールのいう消費社会がたどり着くべくしてたどり着いた今日の文明のありかたに対してあきらめに近い感覚が拭いきれず、沈鬱な心持ちでした。向かう先が紹興という特別な場所であったことともシンクロして、そういう心持ちが増幅していたのだと思います。
わたしにとって紹興をイメージさせる手がかりは、武田泰淳の『秋風秋雨人を愁殺す』(1968年)というルポルタージュです。紹興出身で「鑑湖女侠」と称された女性革命家秋瑾の生涯を描いたこの作品には、泰淳自身が文化大革命のさなかの1967年に紹興を訪れた際の見聞が生き生きと記されています。中でも印象的なのは、訪問団を乗せた自動車が街角に止まるたびにもの珍しさに誘われて集まってくる群衆であり、その群衆を見て泰淳が想像した昔時の様子でした。彼は、魯迅の短編小説に出てくる農民の被っていた黒いフェルト帽子を買うために車を降りて再びおびただしい群衆にとりかこまれた際に次のように想像します。
子供たちがおしあい、へしあい、首をつき出している。魯迅の幼年時代にも紹興の農民は、雨の日、風の日、夏の朝、冬の晩、この黒いフェルト製の帽子をかぶっていたのである。だとすれば、秋瑾女士が紹興で大活躍をしていた頃、彼女の周辺の農夫も、この黒い帽子を愛用していたことになる。したがって、彼女の刑死した日にも、彼女の死を目撃したかしないかは別として、この土地の農民は、この黒い帽子をかぶっていたにちがいない。この事実は、ありきたりの平凡な現象ではあろうけれども、私にはひどく恐ろしい真実のように思われる。(ちくま日本文学全集『武田泰淳』所収、297ページ)
わたしが生まれる一年半ほど前に、当時きっての中国通だった武田泰淳の筆に描かれた世界がそのままわたしの想像の中の紹興だったのです。それがおよそ60年を経た今(なお、泰淳が訪れたのは秋瑾に死後ちょうど60年の年でした)、まったく別の装いに変わっていたのは当然すぎる現実でした。泰淳が「恐ろしい真実」と述べた黒い帽子の人々は見当たらず、五つ星ホテルになった咸亨酒店の並びにあるレストランのコスチュームとして使われていました。わたしのイメージは現地に到着した瞬間に覆されたと言って過言ではありません。
秋瑾は蔡元培がリードして清朝打倒の革命を志す光復会のメンバーであり、東京で女性の地位向上を目指して学び合う「共愛会」を設立するなど、革新的な女性として活躍しますが、1907年7月に武装蜂起を起こして失敗し処刑された徐錫麟の罪に連座するかたちで逮捕され処刑されます。魯迅の短編小説『薬』は、処刑された罪人の生き血にひたした饅頭を持って帰って肺病の子供に食わせるという話ですが、これは秋瑾の処刑がモデルになっていると言われています。主人公が人血饅頭を購入した場所は伏せ字入りで「古□亭口」と書かれていますので、この物語が紹興市を舞台にしていたことは明らかです。秋瑾が処刑されたのがまさに紹興市最大の繁華街に位置する「古軒亭口」でしたから。後から知ったことですが、その場所は魯迅故里から北へ10分ほど歩いたところでした(わたしはそれを知らずにそのすぐ近くのショッピングモールで買い物をしています)。
徐錫麟もまた紹興の人であり、魯迅は近代白話小説の第一号として中国文学史上に名高い『狂人日記』の中で、この名に言及しています。
易牙が自分の子を蒸して、桀紂に食わせた話は、あれはずっと大むかしのことなんですね。でも、ほんとはこうです。盤古が天地を開いてこのかた、ずっと食いつづけて易牙の子になったのです。そして易牙の子からずっと食いつづけて徐錫林になり、徐錫林からずっと食いつづけて狼子村でつかまった男になります。去年、市内で囚人が処刑されたときも、肺病患者がその血を饅頭につけてなめました。やつらは、ぼくを食うんです。(竹内好訳、岩波文庫版、27ページ)
「徐錫林」は徐錫麟と同じ発音なので、同一人物を指すと考えてまちがいないでしょう。徐錫麟は心臓をえぐる刑で命を落としましたが、それだけでは終わらず、その心臓は鎮圧軍の兵士によって食べられています。『狂人日記』はそのことを言っているのです。魯迅の文学は、同郷の士が死していかねばならなかった歴史と社会に挑むような営みだったのです。紹興は、秋瑾、徐錫麟、そして魯迅を結ぶ町であり、中国の近代革命がその途上で多くの尊い命を失わざるを得なかったきびしい現実が凝縮された町だったのです。武田泰淳は「『フェアプレイ』は早すぎる」という魯迅が1925年に書いた雑文について、次のように言っています。
徐錫麟と秋瑾が刑死した年にだけ、秋風秋雨が人を愁殺したのではなかった。その後、魯迅は死に至るまで、くらい秋風秋雨が止むことなく人を愁殺し続けるのを感じつづけていた。(武田同上、357-358ページ)
魯迅にこの雑文を書かせたのは、上海にある日系紡績工場のストライキに端を発した反帝民族主義運動として知られる五・三〇事件でした。工場の日本人監督者が労働組合リーダーを射殺したのが抗議活動のきっかけです。運動は上海から広州、香港へと広がり、その中で多数の人が殺されていきます。1925年のできごとです。
それから百年、紹興は魯迅や秋瑾、さらには武田泰淳すらも想像できないであろうような変貌を遂げました。東京へ帰った泰淳を待っていたのは、ほんの二十年ほど前まで続いた日本の中国に対する帝国主義的収奪や侵略の歴史などすっかり忘れてしまったかのような「美男子」や「現代風美女」たちでした。泰淳は彼らに囲まれて「叫びだしたいのを我慢していた」と述懐しています。しかし、魯迅故里の写真映えする街並みの中にわたしが見出したのは、まさにそうした屈託のない現代風の観光客たちでした。そして、客観的に見れば、百年後のいまのほうが人々はずっと豊かで幸せなはずなのです。少なくとも、徐錫麟や秋瑾のような犠牲も、その血を吸うことにしか生きる望みを見いだせない民衆も、もはやここには見当たりません。わたしたちは皆、泰淳に耐えがたい我慢を強いた当の現代風人間として日々を過ごしています。では、わたしたちはもう易牙以来の歴史から本当に自由になっているのでしょうか。猛暑に眩惑されながらそう自問するたびに、わたしは暗澹たる気持ちになるのを感じていました。
最終日の午後、わたしたちは「社戯」の観賞機会を得ました。もともと魯迅の作品中にしばしば登場する架空の町の名前だった魯鎮は、いまでは復元された古い街並みと共に鑑湖の岸辺に鎮座する観光スポットとして現実のものとなり、伝統的な村芝居(社戯)は、現代テクノロジーを駆使したスペクタクル満載の舞台劇に変わっていました。
しかし、それはわたしの事前の予想を完全に覆す圧倒的なドラマ性を持って迫ってきたのです。
ラストのクライマックスでは、舞台全体を覆い尽くす大きな魯迅の影像が、耳を震わせるような大音量で、「わたしは人を食う人間の兄弟なのだ!(我是吃人的人的兄弟!)」と繰り返し叫びつづけてフィナーレを迎えます。そして、驚くことに、そのあとには、すべての観客が舞台に招かれそのまま舞台奥に設けられた劇場の出口から外に向かって誘われていったのです。それはまさに、「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」(『故郷』、前掲岩波版、99ページ)という魯迅の「希望」をパフォーマティヴに解釈したすばらしいコーダでした。わたしたちはその道を通ることによって、魯迅の物語世界の一員になったのです。そして、このことは、この「魯鎮社戯」というストレートなタイトルを持つ舞台劇の中で、祥林嫂を再びよみがえらせてみせた物語が、「百年後に彼女はようやく救われたのです」と述べたことと直接つながっています。なぜなら、祥林嫂の腕を引いて立ち上がらせたのは、その場で臨時に選ばれた一人の観客であり、わたしたちはその観客と共に劇場を後にするようしかけられていたからです。祥林嫂は紹興の人々からうち捨てられるように命を落としてしまいます。しかし、この劇は、わたしたちに対して、そのような人を食う人間であることをやめるべく命じ、そしてわたしたちは皆それにしたがったのです。この劇は新しい社会に向かうためのイニシエーションだったというわけです。

コーダでは観客全員が舞台を通って出口へと招かれました。
劇の制作者は、まさか北京大学と東京大学から交流のためにやって来た学生たちがこの巧みな演出に加わることになるとは想像もしていなかったでしょう。わたしたちは、百年後に魯迅や秋瑾の物語に加わった希望の同道者です。紹興の二千五百年前からはるか未来へ続くはずの長い歴史の中で、わたしたちのこのたびの訪問はいったいどのような意味を持ち得るでしょうか。いや、何らかの意味を持ったとしても、その意味自体にはまたどのような意味があるのでしょうか。歴史はつねに忘却と共にあり、しかも忘却は必ずしも悪いことだとは限りません。なぜなら忘却は救いにつながりうるからです。しかし、忘却の彼方には無数の声——「鬼」(人が死んだあとのたましい)の声——がこだましており、わたしたちには、それらの声に導かれながら生きていることにふと気づかされる瞬間が訪れることがあります。この紹興のような長い歴史の沈澱をもつ場所ではなおのことそうです。
初日の晩、夕立のあとに訪れた黄酒小鎮の奥には、実はかの徐錫麟の故居があります。夜間だったのでわたしたちが訪れることはありませんでしたが、かつての街並みをそのまま残した街区の入口には、徐錫麟の大きな銅像が聳えていました。余談ですが、皆さんを上海に見送った三日後、わたしは何かに導かれるようにして偶然そこを再び訪れることになりました。そして、東浦という名のこの地域に暮らす人びとの生活にはいまも徐錫麟の事蹟が刻まれているのを知ることになるのでした。

黄酒小鎮入口に聳える徐錫麟像
9月6日は中元節(鬼節)でした。前後数日間は鬼門が開き、鬼たちがこの世界にもどってくると伝えられています。わたしたちは紹興で見えない鬼に触れ得たのではないだろうか。だとすれば、そのことこそが、訪問前の沈鬱な心持ちを振り払う唯一の道であったと思います。唯一その一点において、わたしたちの希望はつながっていると思うのです。
石井剛(EAA院長/総合文化研究科)
