「海洋中国」から見えるもの
11月6日から10日の広州訪問はわたし個人にとって記念碑的な数日でもあったと前回記しました。そこでこれから数回にわたって、もう少し詳細にそこでの見聞について書いてみることにします。

11月7日は朝から夕方まで終日大きなシンポジウムが行われ、その中ではすばらしい琵琶の演奏があるなど、興奮の中を過ごしたのですが、夕食の後にはさらに長い夜が待っていました。折しも中山大学博物館が開館1周年を迎え、その記念イベントが巨大な博物館の巨大な中庭で行われたのです。伝統楽器の演奏会があるからということでわたしたちもお招きを受け、それはそれですっかり堪能したのですが、そのあとに予期せず始まったドキュメンタリー映画にはたいへん驚かされました。もう夜も8時半を回っていたので20分もあれば終わるだろうと思っていたのですが、90分を超えるかというような大作で、ぐいぐい引き込まれながら最後まで見入ってしまいました。
『湾区変形記』というこの作品(トレイラーはこちらから)は「湾区」(「大湾区」とも)と呼ばれる珠江デルタ一帯の人々の生活を、中山大学の歴史学者劉志偉さんの視点から追いかけています。福建、広東、香港などの地域では、アナール学派の社会史的視座と文化人類学的なフィールド指向を融合した、歴史人類学とでも呼びうる独特な方法論による歴史学が行われています。これらの地域が海洋ネットワークを形成しながら経済的にも発展を始めたのが明清時代のことですので、日本やアメリカでも分厚い研究の蓄積がある明清史は華南学派の研究対象とも重なり合っています。今回のわたしたちの訪問では、劉志偉さんに加え、劉さんと共に今日の華南学派を支え、この映画にも関わっている香港城市大学の程美宝さんとも再会することができ、それもまた望外の喜びでした。かつてわたしは程美宝さんがマカオの人々の生活に密着したドキュメンタリー『聆聽澳門街』(マカオ街に耳を傾ける)を見てたいへん印象深かった記憶があったからです。今回この記事を調べるためにインターネットをめぐっていて、このふたつの映画が同じ監督の手で作られていることを初めて知りました。丁澄さんという方です。もう十数年もの間、劉志偉さんのフィールドワークにずっと付き添っているのだというのは広州で聞いたことです。
さて、『湾区変形記』は華南学派の強みが遺憾なく発揮された、歴史学のナラティヴとしても映画としてもたいへん優れた作品でした。大湾区は、広州、深圳、珠海、マカオ、香港など、中国華南地域の経済を支えるいくつかの都市が相互に結びつきながら形成されています。域内経済力はすでにGRP総額で韓国のGDPを上回り、世界第10位に達しているという報告もあるようですから、世界有数の豊かな地域であるということができるでしょう。しかし、近代においてはマカオと香港が植民地支配されていましたし、今日でも一国二制度のもとで高度な自治と異なる経済制度が維持されています。近年では、内地との政治と経済の両面における一体性が急速に高まっており、それは香港とマカオの高度自治を脅かすものだとする意見が強いのも事実ですし、実際に2019年に香港で大きなプロテスト運動がありそれが力で鎮圧されたことはまだわたしたちにとって鮮明な記憶です。
しかし、このドキュメンタリーが描き出す人々は、近代的な主権の政治がもたらす生権力の威力すらも呑み込んでしまうような、柔性に富んだ(レジリエントということばを使わずにどう表現すればいいでしょうか?)生活を、近代的主権がやってくる前から営み続けて今日に至っています。
劉志偉さんらが取り組んでいるのは、強力な政治権力の実体を伴った「中国」という文明の構造を明らかにすることであり、このドキュメンタリーによって示されるのは、農耕文明とも遊牧文明とも異なる、もう一つの海洋文明のシステムが中国には存在しているのだという現実です。大湾区の人々の海洋を通じた商業ネットワークは東南アジアに向かって開かれています(さらにわたしはこれに加えて、アフリカとひとつながりになったインフォーマル経済ネットワークの存在を指摘したいです。詳しくは小川さやかさんの『チョンキンマンションのボスは知っている』をご覧ください)。
カメラは水上に生きる人々の暮らしぶりと、長い年月を経る間に彼らが陸に上がって暮らすようになったあとにもコミュニティに残り続ける信仰生活のすがたを、細密画を描くように追い続けていきます。それらは、ミシェル・フーコーが剔抉したような規律訓練的権力を所持する近代的主権の原理を内部から脱構築していくようなエネルギーを感じさせるものです。それは「文の間隙」として、混沌を内に抱えながら新たな時代の希望を宿す江湖的空間でもあります。
まったく思いがけずこの映画を見ることができたのは何ともうれしいアクシデントでした。
(なお、サムネイル写真は昼間の中山大学博物館全景です。)
石井剛(EAA院長/総合文化研究科)