2019 Sセメスター 第1回学術フロンティア講義

2019年4月5日、学術フロンティア講義 「30年後の世界へ―リベラル・アーツとしての東アジア学を構想する」の初回講義が行われた。今回はガイダンスとして、コーディネーターの石井剛氏(東京大学総合文化研究科)が本講義の趣旨説明と各回の担当教員の紹介をし、また第6回講義を担当する張旭東氏(ニューヨーク大学・北京大学)からの挨拶もあった。今回、石井氏はいくつかの質問を投げかけながら講義を進め、それに積極的に回答する学生の姿が見られた。

まず石井氏が投げかけた問いは、講義名にある「30年後の世界」について皆がどう思うかである。30年後の自分はどうなっているのか、世界地図はどうなっているのか、技術はどうなっているのか。この問いを出発点として、先生は「東アジア藝文書院」という本講義の主催組織を紹介した。北京大学との協力において4月に創設されたばかりのこの新たな研究・教育組織は、英語ではEast Asian Academy for New Liberal Artsという名前をもつ。「リベラルアーツ」とは「教養」を意味する言葉である。

では「教養」とは何か。これについては多くの学生から回答が寄せられた。「古典を知り、知識・文章の作り方を身につけること」「新しく専門的なことを学ぶ際に基盤となる基礎知識」「問題に直面した際に参考となる前例」「自分の専門知識を他者と共有する際に相手の考え方を理解するためのもの」「物事を多角的に見ることを可能にし、人生を楽しくするもの」などである。

石井氏はそれぞれの意見の意義を確認しつつ、教養・リベラルアーツを身につけるということには「自由になること」という意味があると指摘する。「自由になること」とは、自分が変わる可能性と、他を変える力との二つを内に秘めることを意味する。「専門」とは、どれぐらい長持ちするものだろうか。技術の寿命は、人の一世代ほどともいわれる。内燃機関や原子力、また社会システムなどに対するシステマチックな知が専門である。その知はもちろん重要であり、社会はこの知によって動かされているが、それが立ち行かなくなった時、どうすればよいのか。新しい時代に対応するために、私達は自分を変えなければならない。同時に、今あるものを変えなければならない。教養は、その「自由」を可能にするものであると石井氏はいう。

「東アジア藝文書院」とは、東アジアに足場を置いてこのような教養・リベラルアーツを考えることを目指す組織である。「東アジア学」とはここで、東アジア“を”研究するのではなく、東アジア“から”考えることを意味する。この試みは、私達が近代以来培ってきた西洋中心的なパースペクティヴから別のものへと移行する一つのきっかけになると考えられる。

それから石井氏は、各回講義の担当教員を紹介した。その中で、ちょうど本学に滞在中であった張旭東氏からの挨拶があった。張氏は「東アジア藝文書院」の北京大学側のコーディネーターでもある。張氏は本プログラムの目標を主に4点述べた。1つ目の目標は、学生が人生を共にする友人に出会えるようなプラットフォームを作ることである。張氏自身、ニューヨーク、北京、東京と飛び回り、石井氏たちと研究活動を進めている。本プログラムでも学生が国境を超えた友情を築いていくことが望まれる。

2つ目の目標は、リベラルアーツを通して、学生が「人間」として生きることの意味を考えることである。孔子は「君子」はその有用性によって決まるのではなく、精神の修養によって決まると説いた。精神の修養という考えはゲーテにも通じ、日本の大学もドイツのシステムに基づいている。ニューヨーク大が企業のCEOになった卒業生らに尋ねた時、彼らが大学でもっと学んでおくべきだったと述べたのが、歴史・哲学・文学といった、人間としてあることの意味をめぐる知であった。この基礎的な知がリベラルアーツである。

3つ目の目標が、New Liberal ArtsのNewが意味するところ、すなわち「新たな」リベラルアーツを提示することである。これまでの「リベラルアーツ」は根本的に西洋のものであった。そこに東洋的なものを含めていくという挑戦をこのプログラムは担っている。それによって真にグローバルであることが可能となる。

最後の目標として張氏は、学生に自らの根差す場所としての「ホーム」を感じさせるプログラムにしたいと述べた。学生には、ロンドンの夏目漱石のように異邦人として孤独を感じるのではなく、また単に地理的に東アジアにいるということではなく、知的に自分が属しているという感覚、その自信をもてるようになってほしい。それによって真にインターナショナルな交流が可能になる。換言すれば、自分が何者かという根本的な感覚を学生がもてるようになることが、EAAの第4の目標である。

以上の張氏の言葉を受けて、石井氏は孔子の「学びて時に之を習う 亦説ばしからずや」「朋有り遠方より来たる 亦た楽しからずや」という語を上げながら、インターナショナルであることの理由として「楽しさ」を挙げた。大学は「楽しい」所であり、この「楽しい」を保存していかなければならない場所である。

各回内容の説明を受けて、学生からは本プログラムの内容が「東アジア」を掲げつつも、やや中国研究に偏っているということが指摘された。これは石井氏・張氏たちの友情からはじまったというプログラムの背景に由来するものであるが、今後各国の大学にも協力を求めていきたい、そしてぜひ学生には積極的に介入してほしいと石井氏が答え、30年後の世界を志向する本講義の初回は締めくくられた。

報告者:犬塚悠(EAA特任研究員)

 

学生からのコメントペーパー

私は教養というのは自分を精神的に豊かするような内面的な性質が強いと思っていたんですが、今回たくさんの人の話を聞いて、教養は外に働きかける上での基盤だったり、他者とコミュニケーションをとるための基盤だったりと外向的性質もあると気づけました。(文Ⅲ・1年)

「楽しくありたい」というのは人間の根源的な欲求だと思うのだが、それを満たすために「教養」を「自発的に」欲せるというのは、非常に知的で、有難いことだと思う。とはいえ、「楽しい」ということだけが教養の本質ではない。そもそも「楽しさ」自体が時代に左右されやすい、不安定な感情だ。各時代、それこそ30年後の世界において、「楽しさ」をつくる役割を教養が担っているとしたら、「楽しさ」をつくることができる環境や社会や状況を作るのにもまた教養が一役買うのではないだろうか。(文Ⅲ・1年)

グローバルな活躍ばかりが重視される傾向があるが、今後30年は再びローカリティを重複する傾向になるだろうと思っていので、東アジア学は日本で生まれ育った自分にとって本当に重要な意味をもつと思う。(1年)

やはり依然として文学的覇権は西洋各国であるという事実を突きつけられるとともに、東アジアなどの他地域は協力して自ら発信していくべきであると痛感した。領土問題など歴史的ないざこざばかりがメデイアに取り上げられ、協力する方向性は中々強調されないが、EAAを通して日中韓などの「教養」を身につけ、以後の楽しみ(pleasure)を生む有意義な時間をしようと思いました。(文Ⅰ・1年)

法学では、基本的人権を守ることが全ての考え方の根底にある。思考の基盤が人であるならば、人が生活する社会を理解することが不可欠である。そこで必要なのが教養であるのだと思う。ここで自分が指す教養とは、駒場で開講されているものに限らず、日常のあらゆる側面のことである。自分の専門をより深め、豊かなものとするためにも、教養は大切だと感じた。(文Ⅰ・2年)

「教養とはなにか」という話を聞いた時、「力学」の教授の話を思い出した。「メンデルはもともと生物学者じゃなくて物理学者だったんです。物理学の視点が生物学に導入された結果なのです」。「生物学の細胞説は分子論から来ているんです」。発想も思考方法もinputからはじまります。そのinput(○○なperspectiveをはらんだ)こそが教養だと思います。(文Ⅲ・2年)