2019 Sセメスター 第3回学術フロンティア講義

2019年4月26日、学術フロンティア講義「30年後の世界へ−リベラル・アーツとしての東アジア学を構想する」の第3回講義が行われた。今回は東アジア藝文書院設立の立役者の一人である中島隆博氏(東京大学東洋文化研究所教授)が講義を担当した。「Open Philosophy in East Asia」と題し、学生の質問が飛び交う白熱した講義が繰り広げられた。

中島氏が学生にまず語りかけたのは「Open Philosophy」が意味する内容についてであった。open(開く)とは一体どのような意味なのか。中島氏はここでナイジェリア系アメリカ人作家Teju ColeのOpen City(New York: Penguin Random House, 2012)に言及しながら、openであることは無防備であることだと説明した。哲学が無防備であること、それは哲学が誰に対しても開かれていることである。中国や日本に哲学はないという論及がしばしばなされるが、30年後の未来においてこのような語り方は出来るのか、或いはするべきなのか。中島氏は哲学を一部の地域のみが独占するようなものではなく、世界のあらゆる人に対して開かれているものとして考えたいと述べた。そしてその中で非常に重要になるのが、概念の武装解除である。

 

歴史学は歴史を対象にする。文学は文学を対象にする。では哲学は何を対象にするのか。哲学は概念を対象にするという答えが最大公約数的なものになっていると中島氏は話した。哲学書や哲学研究の本を見ると様々な概念が登場する。時にそれらは日常ではあまり使わない語句が使用されており、哲学に手を出そうとした人たちを辟易させる。そのような概念を強調すること、それは哲学を一部の人たちのものにしてしまい得る。よくわからない言葉を使い、哲学に興味のある人を遠ざけてしまうようなことをしていて良いのかという問題提起である。

概念の武装解除に言及した後、中島氏は日本哲学の話題に切り込んでいった。近年の日本哲学研究における大きな成果として、2017年に刊行されたトマス・カスリス氏のEngaging Japanese Philosophy: A Short History (Honolulu: University of Hawai’i Press, 2018)を中島氏は評価する。本書の最大の特徴は日本哲学を一つの研究対象として距離をとって客観的に考察するのではなく、engage、つまり関与することを通して日本哲学を読む手法を取っていることである。何か特定のテクストを読む際に、それを研究対象として突き放しているままでは問いなどそもそも生まれないとカスリス氏の言葉を使いながら中島氏は主張する。

続いて話は日本における日本哲学の研究状況に移る。現在のところ日本哲学科や日本哲学の専攻を有している大学はほとんどなく、哲学科や哲学専攻の多くは分析哲学や現象学などの、カスリス氏の言葉で言えばドイツやアメリカなどにおけるローカルな哲学に拘りすぎてしまっている。中島氏はそのような地域的な、ローカルな哲学を脱し、世界哲学、つまりworld philosophyを考慮する必要があり、それが来るべきopen philosophyの前段階になると主張する。

World philosophyの発展を予期するものとして、中島氏があげたのは2016年11月にニューヨークタイムズに掲載された記事であった(“If Philosophy Won’t Diversify, Let’s Call It What Really Is”)。これはアメリカの大学の哲学科が行なっているのは西洋の哲学のみで、「欧米哲学科」と改名するべきだと風刺した記事であり、賛否様々な声があったが、哲学が少しずつ開放され、world philosophyの流れにやっと入ってきたと中島氏は感じている。

 

ではなぜ哲学は世界化すべきことを強調するのだろうか。それは哲学が持つ複合語の原理と深く関わっている。ここで上げられたのは中島氏と共に『日本を解き放つ』(東京大学出版会、2019年)を著した小林康夫氏であった。本書は日本哲学を客観的に論じるのではなく、日本から普遍に如何にアクセスできるかを試みた本であった。そして小林氏は平仮名、カタカナ、漢字などが入り交じった「複合言語」としての日本語に言及しつつ、こうした複数言語の世界に直面した知性として空海を挙げている。このように複数の言語が組み合わさるところにこそ問いが生まれ、哲学が成立すると主張している。講義後の質問の中で、これは日本特有の現象なのではないかとの指摘があったが、中島氏は例えば現代フランス哲学はドイツ哲学の読解の中から生まれてきたこと、デモクラシーという言葉が様々な言語に翻訳されることを通してその意味を充実させてきたことなどを挙げ、あらゆる概念は複数の言語の中で展開してきたと答えた。問いは常に複数の言語の中から生まれる。だからこそ哲学は世界化する必要があり、そしてopenなものにならなければならないのである。

中島氏が最後に触れたのは未来についてであった。未来というのは大きく分けて二つのタイプがある。天気予報のように自分が何をしようが変わらないものと、人生のように自身の動きによって変わり得るものである。強調されるのは後者のタイプの未来である。それは欲すること、関与することによって変化する未来である。言葉を変えれば、私たちは自身が関わることによって大きく変わってしまう未来に直面している。哲学の未来、東アジアの未来についてどのようなものを欲するか。東アジア藝文書院と共にその展開に期待したい。

報告者:建部良平(EAAリサーチ・アシスタント)

 

学生からのコメントペーパー

西欧という思想の檻から抜け出し、哲学という言葉の意味を概念武装から解放し、人々が主体的にかつ普遍的に哲学と向き合っていく。自発的、関与的に新たな知を「欲する」。それこそが本当の哲学であるという新しい定義付けを学ぶことができました。(中略)未来そのものを構想し、主体的かつ普遍的に未来と関わっていく。そうすることで未来というものは変わってくる。自発的、関与的に新たな可能性を「欲する」。このように哲学において求められる姿勢が30年後の未来を考えるのに際し必要になってくることを学びました。東アジアという眼鏡を通して未来を見る、このEAAの主旨が少しずつ分かってきた気がします。(文Ⅰ・1年)

哲学をする際に各言語の歴史性、拘束性を無視しないほうが良いと考えていらっしゃるようでしたが、その場合エスペラント語のような明確な文化・歴史的背景を持たない『開かれた言語』で哲学は行えるのか。(文Ⅰ・1年)

理系の話題の中にも哲学が入ってくるような状況であるならば、現在も東京大学の入学システム、そして学習システムの中で残存している文理の境目はあやふやではないでしょうか?というかむしろ残す意味はあるのでしょうか?リベラルアーツ(私はこの学問の重要性は認識しています…)を学ぼうとするなかで、不安になります。自分の拠り所が無くなる感じがするのです。(中略)色々な「哲学」を学んだうえでopen philosophyに関わりたいと思います。なんだかワクワクしてきました。(文Ⅱ・1年)

「可能性をこえたところを欲することでしか未来は変えられない」というメッセージは強くひびいた。(中略)学問へのopenな、無防備な姿勢、そしてリベラルアーツの重要性を改めて感じさせられた。(理Ⅰ・1年)

法学の講義では、英米法と大陸法を対比したり、フランス人権宣言の意義を探ったり、明治維新以降の日本法制史をフランス、ドイツ、アメリカの影響のも学んだりしています。(中略)そこでアジアやアフリカ等非西洋地域の法学、法哲学に関する知見というのはあまり触れることがありません。それらの東洋的、全世界的な法への理解の重要性を今回の講義で実感できたような気がします。当然、そこには哲学同様、“法”とは何かという疑問、再定義や現状の法の分析方法、研究対象への批判的な姿勢が伴い、挑戦的な態度が必要になるかと思いますが、自ら興味の方向を定めることができました。西洋的な法以外、“法”ではないか。「近代化」以前のアジア地域に法はないのかなど問いを常に持ちながら、学習を進めたいと思います。(文Ⅰ・年)