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2019.10.02

2019年度秋学期のEAA読書会(「文学と共同体の思想」)の第一回

2019年度秋学期のEAA読書会(「文学と共同体の思想」)の第一回は、2019年10月1日に東京大学駒場キャンパス・101号館11号室で行われた。第一回の担当者としての王欽(EAA特任講師)は、参加者の皆とともにベネディクト・アンダーソンのナショナリズムについての名著『想像の共同体』とアメリカ学者のマルク・レドフィールドの批判を読んた。

まず王欽は、1983年に出版された『想像の共同体』を戦後ヨーロッパにおける左翼思想、特に左翼思想のマルクス主義の伝統への反省と調整の文脈に置くべきだと述べた。マルクス主義の伝統にしたがえば、「ネーション」は「上層構造」に属し、受動的に「下部構造」に規定されると見なされがちである。こうした理解のうえで、あとでゲルナーがマルクスは「階級」と書いてある手紙を「ネーション」と書いてあるメールボックスに投げてしまったと論じたように、マルクス自身は第一次世界大戦の結果を正しく予想できなかった。そこで、戦後ヨーロッパにおける左翼思想の行った、マルクス理論における「下部構造/上層構造」への批判と再解釈は、主に重点を「上層構造」の自律性に置いている。典型的な例はグラムシの提出した「文化的指導権」である。もっと広範的な意味で、フーコーの権力論とサイドの「文化的帝国主義」に関する分析も、同じ文脈に入るであろう。

戦後に行われたマルクス主義への反省と再解釈という特定の視野からして、アンダーソンの民族主義的言説に対しての分析は、事実として、以上のような「文化的転向」の延長線上にあるわけである。彼自身はこの点を強調するかどうかは別として。アンダーソンの民族主義的言説を成り立たせるいくつかの要素(印刷資本主義、リーディングの経験、同質化された時間感覚など)についての分析は、過去のナショナリズムに対しての本質主義的論述、またはマルクス主義が行われた経済的基礎を中心とした論述を、「文化的」分析へと舵を切った。それは、つまりアンダーソンの言う「社会の自律性」への強調にほかならない。このように、アンダーソンはナショナリズムの近代における位置を、18、19世紀に形成された近代ヨーロッパ的国民国家という政治実体のところに置いた。いいかえれば、彼は『想像の共同体』の中で民族主義的言説の「原因」を究明するよりも、むしろネーションを形成することにある「影響」を与えるかもしれないいくつかの要素を取り上げているのである。

王欽によると、『想像の共同体』に対するたくさんの批判の中で、大多数を占める「外部批判」よりも――例えば、共同体はあくまで「想像」の産物ではないといい、近代民族主義的言説における女性の地位と役割に対するアンダーソンの分析が不足であるというような批判――アメリカ学者のレドフィールドが行った脱構築的批判は、ある意味でアンダーソンの論述との「内在的」対話になっている。「イマジ―ネーション」という文の中で、レドフィールドはジャック・デリダの「散種」論を出発点として、アンダーソンを批判した。つまり、アンダーソンの論述における、ナショナリズムのアイデンティティを構成する要素の一つとしての印刷資本主義は、アンダーソンの予想通りに読者の間で共同体意識をつくり出すことが不可能である、と。レドフィールドがはっきり書いていないが、ここで注意すべきは、アンダーソンが今までの民族主義研究において文学が十分に言及されていないことに不満を言いつつも、他方で、アンダーソン自分があたかも新聞や雑誌を扱っているように、文学を民族的同一性の意志を培う方法として論じている。この論述に従って、レドフィールドは「想像の共同体」論をフィヒテのドイツ民族への講演(1808年)とともに論考している。なぜなら、フィヒテの場合と同じように、「想像の共同体」論の要は、アンダーソンの強調したようなリーディングの経験とか、同質的時間意識とかいうものでなく、むしろ共同体形成への意志だからである。大切なのは、人々は共同体に関する言説を本当に信じているかどうかではなく、人々はこれを信じたいことである。もしわれわれはレドフィールドの批判的読み方を広げれば、いわばアンダーソンの「想像の共同体」論ははじめに結論を先取りにしているといってもいいであろう。すなわち、互いに認め合う民族的同士としての個体、本を読む能力・時間を読む能力・ある言語で他人とやり取りことのできる個体、そのような特定の個体を出発点としたからこそ、印刷資本主義や同質的時間やリーディングの経験などについての結論は成立できる。しかし、そもそも問題はこのような民族的個体性の由来にあるのではないであろうか。

マーク・ロバーツは、アンダーソンが「印刷資本主義」という曖昧な語彙を用いて、いままで民族主義研究において着目した多くの概念と次元(例えば、マルクス主義における生産様式)をあらかじめ排除したが、一方で、レドフィールドの触れたフィヒテのテクストにおいては、古代ギリシャ語の受け継ぎとして自ら言い張ったドイツ語は、簡単にアンダーソンのいう「文化的根源」に回収できないこともある、と主張した。現実に、「民族主義的言説」と「公の民族主義的言説」の間に存在している罅と衝突も、アンダーソンの論じることよりさらに複雑である、とロバーツは述べた。胡藤は、フィヒテの強調しているドイツ語とギリシャ語の関係は、結局いわゆる「自然的力」に収束したので、ここでナショナリズムの自然性と人為性に関する問題も実に面白い、と主張した。八幡さくらによると、フィヒテのこのテクストは、実は近代国民国家としてのドイツが成立するだいぶ前に発表されたものだから、フィヒテはここでギリシャ思想からドイツ国家を形成する糸を探している。そうすると、ギリシャ思想にとっての重要な概念の一つの「自然」は、そのままフィヒテの論述でも重みを持ってきた。佐藤麻貴はアンダーソンの論じた「無名戦士記念碑」を参照しつつ、靖国神社の問題に触れた。つまり、神様の位置まで昇華された死んだ戦士の魂が、彼らの混雑なアイデンティティは、国家イデオロギーと違うある「共同体」をつくりだしたのではないか、という。建部良平も日本の状況を言及した。アンダーソンの分析に応じて、同じようなことは日本の「三種神器」に関しても言いうるであろう。つまり、空っぽの内部でありながら、神話的ナラティブとして民族アイデンティティを形成する過程で役に立っている、と彼は主張した。髙原智史は、アンダーソンの論述では、民族の場合には、過去への追及が重要なポイントであるが、同じような過去への追及・想像・創造はそのまま個人の場合に当てはまるか、と疑問を呈した。一方で、高山花子は、テレ・コミュニケーションはどのような想像によって共同体を形成しているか、その背後にある条件は何か、と問うた。それに関連して、国民国家の境界が流動的ものになりつつある今の世界で、多重アイデンティティさえ珍しくないことになる場合には、「想像の共同体」論はどの程度解釈力をまだ持っているか、と髙山は問うた。

報告者:王欽(EAA・特任講師)