2019年度秋学期のEAA読書会(「文学と共同体の思想」)の第二回

2019年度秋学期のEAA読書会(「文学と共同体の思想」)の第二回は、2019年10月15日に東京大学本郷キャンパス・EAA本郷オフィス(東文研208号室)で行われた。第二回の担当者としての王欽氏(EAA特任講師)は、参加者の皆とともにジャック・デリダの「署名 コンテクスト 事件」を読んだ。

デリダの論文を読む前に、王氏はこのテクストと第一回のディスカッションとの関係について説明した。アンダーソンが自分がナショナリズムの言説を論じている時、いままであまり重視されていない「文学」を勘定に入れた、と主張しているから、われわれはエクリチュールとしての「文学」の性質を議論すべきだ、と王氏は言った。バークレイ大学出身のマーク・ロバーツはまずデリダのこの論文がもたらした思想的争議ないし分裂を紹介した。つまり、言語哲学の一人として、「言語行動理論」の代表者としてのジョン・サールからの反論とデリダからのイロニーに満ちた再反論は、いわゆる「ヨーロッパ的哲学」と「アングロサクソン的哲学」の緊張かつ対立的関係をもたらした、という。これは今回の読書会の出発点になっている。

デリダの論文が取り上げているのは、哲学者オースティンの『いかにして言語でものごとを行うか』によって提起された「平叙的発話」と「行為遂行的発話」の区別である。まず、オースティンにおいては、「行為遂行的発話」が一種の特別的な発話になっており、単に事態を描写している発話から区別されている。しかし、興味深いことに、オースティンはこの区別を執拗しなかった、と王氏は指摘した。むしろ、オースティンの論考が進むと、もともと単なる平叙的かのように見える発話は、ますます「行為遂行的」なものになっていく。なぜならば、事態を描写することさえ、言語のレベルで「かつてない現実そのもの」を露呈しているからである。その意味で、もはやオースティン自分は「平叙的発話/行為遂行的発話」という対立を「脱構築」したといってもよい。

だが、デリダの脱構築的読み方はこの先へもう一歩進んだ。オースティンにおける「行為遂行的発話」の開示は、エクリチュールに関する大事な事実、いままで重要視されていない事実を提示している、とデリダは論じている。つまり、あらゆるテクストは一旦作者(発信者)から離したら、誰もこのテクストの到達点と受信者を予測できないし、このテクストについての解釈も規定できない。したがって、作者の意図は、テクストの意味に直接的に対応・決定しなくなる。テクストの流通・コミュニケーションの特徴は、デリダのいう「反復可能性(Iterability)」にある。デリダは「Iter-」という両義の文字を通じて、「反復」することが繰り返しながら差異化していることを強調した。「反復可能性」なしには、テクストの意味構成も不可能である。「行為遂行的発話」があるために、発話者の意図はもはや発話の効力を拘束できなくなり、あらゆる言語は特定のコンテクストのもとに理解されていなければならない。ここで重要なポイントは、デリダは単に「意図」を「コンテクスト」に変えたわけではなく、むしろ「コンテクスト」の決定不可能性を強調していることにある。すると、オースティンが「冗談的な発話」をディスカッションから排除したとき、彼はまさに自分の「行為遂行的発話」に関する議論を裏切ってしまう。なぜならば、「冗談的/厳粛的」という区別によって、かれは改めて発話者の「意図」を潜らせたからである。一方で、デリダはコンテクストがつねに充分に規定されえないこと、あらゆるコンテクストが「反復的に」調整され、再構築されることを主張している。同じことを署名の場合にも見出せる。つまり、一つの署名はかけがえのない独得的な事件でありながら、署名の「事件性」は独自のアイデンティティを持っているわけではない。それどころか、一つの署名のもつ差異的同一性こそ、署名の効力を保障している。一つの名前に関して言えば、もし全く同じな署名が二つあるとしたら、いずれは偽物に見なされるに決まっているが、一方で、もし二つの署名が全く違うとしたら、いずれも偽物に見なされるかもしれない。署名が示しているのは署名者の現前ではなく、むしろ「作者」の不在的現前という効果をもたらす言語の「反復」にほかならない。

読書会のメンバーである建部良平氏は夏目漱石における「月がキレイですね」に対する独自的な解釈を取り上げ、同じ文章がいかに別々のコンテクストで違う言語的効果を生み出せることを、デリダの分析に沿って論じた。彼によると、デリダのオースティンに対しての脱構築的作業の中心は、後者において「行為遂行的発話」の中で確立されたヒエラルキーをぶち壊すことにある。具ユジン氏は、「フェイク・ニュース」の作者の意図という話題を提起し、ニュースに関するエクリチュールに対しての社会学的分析をデリダの分析と関連して論じた。最後に、王欽はアメリカ哲学者スタンリー・カヴェルの反論に言及した。カヴェルによると、デリダがオースティンの行った「冗談的発話」の排除を誤解した。なぜなら、オースティンが『いかにして言語でものごとを行うか』の中で「冗談的」な事例を考えないことにしたのは、彼は別のところでこの問題を取り上げたからである。しかし、デリダの脱構築的な読み方の狙うのは、オースティンの行った「排除」より、彼において「冗談的発話」が「厳粛的発話」の「寄生物」または「派生物」になる、ということである。すなわち、結局のところ、オースティンは別の形で「意図」の形而上学的優位を確立した。

デリダの論述と「文学と共同体の思想」というテーマの関係について、王氏は以下のように説明した。もしテクストの流通・解釈は作者の意図から解き放たれ、ある共同体とその共同的文化・言語から解き放たれることができたら、テクストのさまざまな共同体の間に「反復」されていくことは、まさにデリダのいう「散種」にほかならぬ、といってもいい。しかも、もっと広範的な意味で、テクストが「散種」されるのは、未来の他者へ開放されることである。これは決してすべての解釈が同じように正しいということを意味しない。ただ、反復と散種は、テクストに対する解釈の可能性を実質的措定――言語、民族、性別など――に課された制限から解放されていく。もしかしたら、これは文学的共同体への第一歩になるかもしれない、と王氏は結論した。

報告者:王欽(EAA特任講師)