EAA中国近現代文学研究会第四回

2019年度秋学期EAA中国近現代文学研究会の第四回イベントは12月19日に本郷キャンパス・赤門総合研究棟で行われた。今回は朱羽の近著『社会主義と“自然”――1950―1960年代中国美学論争と文芸実践研究』(北京大学出版社2018年)について、ディスカッションを続けた。

まず、田中雄大氏は「自然」という語彙の含んだ多義性を指摘した。朱羽のいう「第二自然」といわゆる「客観的自然」は意味がだいぶ違っているが、互いに関連するところが少ないように見える。各章に触れている「自然」が様々な意味を持つが、それらの意味の間にある関係性がはっきりしない。

しかも、朱羽は狭い意味での「文学」を議論するときに重点を「客観的自然」に置いているが、いわゆる新民歌、新壁画を論じるときに「第二自然」を強調することが多い。それと同じように、文学作品の「作家」に対する態度とほかの芸術実践における「作者」に対する態度も全然違う、と田中氏は言った。

趙陕氏は、新民歌や新漫才など、朱羽の選択した研究対象について疑問を呈した。なぜこれらのジャンルに絞っているであろうか。その上、「社会主義山水画」についての定義を明らかにしていないだけでなく、これらの作者の創作したほかの絵画作品を考察対象に入れていない、と趙氏は言った。例えば、当時スターリンを再現したたくさんの絵画を如何に理解したらいいか。それと関連して、芸術創作における動機と芸術形式の歴史的地位も、作品を評価するのに不可欠なエレメントである。もし「笑い」の問題がまさに歴史的コンテクストから離れては論じられないのであれば、様々な歴史時期を貫く普遍的価値のようなものがあるか、と趙氏は問うた。

陳雪氏は、「社会主義新人」の訴求と克服されるべきものとされる「人性」が、社会主義時期における一連の芸術実践においては、各々の矛盾衝突を露呈したはずだが、「新山水画」に関する論議の中で作者の意図が十分に論じられていないので、結果として、作者が自分の芸術的追求を作品に注いだかどうか、果たして作者自身がそれらの作品を芸術として見ているかどうかは不明のままである、と述べた。

漫才についての分析は、最も面白い部分だと鈴木将久氏は言った。なぜなら、社会主義時期の漫才こそ、この時期の社会主義的芸術が内包しているジレンマを表現しているからだ。「笑い」についていえば、「人性」がはたして客観的存在であるか、それとも特定の社会機制をディシプリンにしたものなのか、という緊張に満ちた難問は漫才を通じて浮き彫りにされた、と王欽氏は補足した。同時に、田中氏の提起した問題に対して、王欽氏は、朱羽の論述が人為的に「自然」のもついくつかの側面を引き分けるのではなく、むしろ、全体性のもつ社会主義的実践がもともと「自然」の意味群を同時に包含しているが、そういう実践の歴史的敗北こそが、いまの研究者が当時における「自然」を「有機的」に論じる適当な言語と考え方を持っていない状況をもたらした、と強調した。

鈴木氏は、朱羽が当時の芸術家たちの政治に対する「抵抗」を論じていないが、それは彼の問題意識がそこにあるわけではないからだ、と言った。朱羽は中国共産党の政策も、共産党リーダーたちの文芸に関する論述さえもあまり引用していない。彼はあくまで共産党と個人としての作家の間にある複雑的関係に重点を置いている。だが、朱羽の廃名論に見て取れるように、彼は実は抵抗しながら社会的要請に応じようとする作者の姿勢を鋭敏的に把握している、と鈴木氏は結論した。

 

報告:王欽(EAA特任講師)