ジャーナリズム研究会第一回公開研究会

2019年12月15日15時より、駒場キャンパスにてジャーナリズム研究会主催第一回公開研究会が催された。ジャーナリズム研究会は、EAAリサーチユニットの一つで、東アジアにおけるジャーナリズムの生成が、国際的な現象として起こりながら、これまで各国ごとの枠組みの中で個別に研究が進展してきたのに対し、アジア大の、さらには世界大の視点から見直してみようとの趣旨で、総合文化研究科、学際情報学府兼担の前島志保准教授の主宰の下で行われている研究会である。

第一回研究会は、ベトナムの言語社会学と言語政策を専門とする岩月純一氏(総合文化研究科教授)と、日露比較文学・比較文化および日露文化交流史を専門とする松枝佳奈氏(総合文化研究科・教養学部附属 東アジアリベラルアーツイニシアティブ特任助教)を講師に招き、国・言語・分野を越えた枠組みからアジアにおけるジャーナリズムの生成を再検討するという、まさに本会の主旨に適うものとなった。

主宰者による会の主旨の説明に続き、一人目の講師・岩月氏は、「近代ベトナムにおける新聞・雑誌の形成――文字言語の交代との関わりを中心に」を演題に、リテラシーという観点からベトナムにおける新聞、雑誌の発刊がいかなる意味をもつかということについて話された。岩月氏によれば、ベトナムにおいて出版の発展は読者層の形成と並行している。ベトナムが植民地化されると、これまでの漢文、チュノムという在来のリテラシーの外側にフランス語、ローマ字ベトナム語(クォックグー)というリテラシーが形成された。新聞・雑誌の刊行状況は、これら複数のリテラシーの競合を反映しているという。

続いて、岩月氏は、ローマ字化が一気に進んだのではなく、段階的に、また場面や地域によって不均衡な経過をたどったことを説明された。コーチシナは割譲されフランス領となったため徹底的にフランス化されたのに対し、アンナンやトンキンは間接統治でフランス化は緩やかだったのだ。ベトナム側知識人は、(中華)文明への精神的な土台としての言語、文字という意識からそれを奪おうとするフランスの文化侵略に抵抗したが、フランス側はそれの鎮圧を図ったという。

次に岩月氏は、各地の新聞発行の展開について話された。フランスが入る前、阮朝は情報流通を警戒していたために新聞発行の歴史はなく、フランス植民地政府がフランス語で新聞を出したのが最初だった。コーチシナでは漢文を公文書に用いるのが禁止され、フランス語とローマ字ベトナム語のみが用いられた。ローマ字新聞は当初、ほぼ官報で面白みはなく、1900年ごろから複数の新聞が発行され、時事解説や自然科学的な知識の普及記事も載るようになったという。一方、間接統治下のトンキンではドラスティックな政策は行われず、漢文での新聞が19世紀末に発行されていた。そこから20世紀初頭にローマ字併用の新聞も出始め、さらには開明派知識人の集団と植民地政庁とでローマ字新聞が争って出され、読者獲得競争が起こり、そこでは、どの文字を使うかが争点になったという。また、アンナンでは、阮朝皇帝のお膝元として、新聞事業そのものが起こらなかった。ローマ字新聞が出るのは1927年で、ハノイやサイゴンから新聞が流入はしてくるがアンナンから発信されることはない、という状況だったという。

発表の後半は、言語教育政策に関する説明がなされた。コーチシナでは、科挙が廃止され、通訳学校でフランス語とローマ字ベトナム語が教えられた。1900年代に入って、ローマ字を理解する新知識人層が出現し、それによって新聞の発行が可能になった。リテラシーと官吏登用はリンクしており、処世の術が、漢文を学んで科挙で出世するという方法から、ローマ字を覚えて植民地の下級官吏になることへと移っていったという。

他方、チュノムはしばらく残り、全体のリテラシーが一変したわけではなかった。トップ層で何がメインとなるかが変わり、底辺で漢字しか読めない層にはそのための出版が残る。また、漢文を学んだが、科挙に受からなかった人が村で漢字を教えるということがあり、さらに1930年代からは、そうした農村の私塾でもローマ字が教えられるようになった。農村の私塾は1940年代まで残ったが、ローマ字の普及にはこうした農村の漢字私塾が果たした役割が大きいという。

地域性について目を移すと、コーチシナで他の地域に先駆けてローマ字文化がまずできていたことが、ローマ字表記の全国化の足がかりになったという。組版の技術などがコーチシナから他の地域に輸出されることもあった。したがって、地域的差異は、ローマ字の普及の阻害要因ではなく、促進要因という側面もあったのだ。漢文が最後まで残ったのは、フエの宮廷だった。ラストエンペラーであるバオダイ帝がフランスから帰国し親政を始めた1933年より後、1940年代ごろから、公文書が漢文からフランス語、ローマ字ベトナム語へ徐々に移行してゆく。漢文の暦書は1954年まで確認でき、ホーチミンの1946年の日記や1966年の手稿を見ると、漢字とローマ字が混在しているのが確認できるという。

リテラシーがローマ字に一本化されている現在のベトナムからすると、リテラシーの複数性、並行性が見えにくくなっているのではないかという指摘とともに、岩月氏は講演を閉じられた。

フロアからは、中華圏の新聞の流入はあったかとの質問があり、これに対して、フランス政府がほぼ禁輸していて、こっそり流通するか手書きのものが回覧されたこと、中国の新聞からの影響は大きく、中越の新聞の形式・組版などはよく似ているとのことが説明された。また、後の日本進駐時にベトナムのメディアに変化はあったかとの質問には、1940年代ともなるとメディアは固まっておりとくに変更はない、日本側も日本語版新聞は発行しなかったとの答えが示された。

二人目の講師、松枝氏の講演は、「明治期知露派文人ジャーナリストのキャリア形成――二葉亭四迷・大庭柯公の場合」と題され、二葉亭、大庭の両者を並置しながら、彼らがどのようにしてジャーナリストとなったのか、あるいはならざるをえなかったのかを検討していくものであった。

まず松枝氏は、「知露派文人ジャーナリスト」という言葉についての定義を行った。そこで、「知露派」というのが幅広い分野についてロシアの地域研究を行っていたことを示すとともに、「ジャーナリスト」というのが、もともとは職業を指す言葉でなく文学者の意味を含んでいたことを指摘した。

次に松枝氏は、二葉亭、大庭の出自と世代を比較し、ともに江戸末期から明治ゼロ年代の生まれであること、下級氏族階級の出身であることを明らかにした。そのうえで、両名が明治維新や自由民権運動を経験し、国が富国強兵策・対外膨張政策を進めるなかで成長したことが、その後の対外意識の形成に大きく影響していると述べた。つまり、ふたりは、立身出世、天下国家、経世済民に関心を持つ世代であったのである。

ほかにも、両者の共通点は存在する。それは、教育や生育環境である。具体的には、漢籍・漢詩文の素養を持っていた点、(これはとくに大庭柯公についてであるが)小学校における「作文」教育がジャーナリストとしての文体を形成した点、政治小説や偉人伝に熱中して外国や革命運動への憧れを醸成していった点、高等教育を修了していない点などが挙げられるという。当時はまだ高等教育を受けていなくとも、ジャーナリスト・新聞記者になることができたのである。また、二葉亭と大庭の共通のロシア語の師・古川常一郎の存在についても言及があった。当時の日本では、ロシア事情をロシアの文献から収集し日本に知らせる人物が必要とされており、二葉亭や大庭はその要求を満たす人物であった。換言すれば、このような時代の要求が、彼らにジャーナリストへの道を拓いたと松枝氏は指摘した。

このあと松枝氏は、二葉亭と大庭が書いた記事の実例を示しながら、両者の差異に言及した。二葉亭は、ロシア情勢(政治や経済など)にも精通し、最新の情報を伝える記事を書きたいと願いながらも、あくまでも小説家たることを世間から求められた。一方、大庭は二葉亭がもっともやりたかったロシアの最新の事情を論説記事として描き、人気記者となっていったのである。

また、具体例を確認しながら、松枝氏は両者の思想面についても触れた。両者とも、自由主義、議会政治、世論の重要性を認識し、新聞雑誌における言論活動の活性化に力を入れた人物であったという。大庭のほうがより実践的であり、言論の力によって普通選挙を促進する活動にも携わり、ロシア革命の進展とともに社会主義・共産主義に傾斜し、入露の際に官憲に捕まり、殺害されたと推定されると紹介した。

以上のように二葉亭四迷、大庭柯公という二者について検討することにより、明治大正期には文学者とジャーナリストは分離しておらず、むしろ一人の人物が両方の役割を担っていたことを松枝氏は明らかにした。さらに、立身出世を夢見ながらもそこから脱落した明治の「士大夫」たちが、それでも経世済民の夢を諦めきれなかった結果、ジャーナリストという道を歩んで行ったことへ着目しなければならないとも主張した。このような事情でジャーナリストを選びとる経緯は、19~20世紀のロシアの知識人(インテリゲンツィア)と実は共通しているのだという。最後には、二葉亭、大庭の出自・教育・思想の特徴は、知露派文人にのみ当てはまるのではなく、国木田独歩などの文人かつジャーナリストにも適応可能であることを言い添えた。

松枝氏の講演は、明治大正期の文学者とジャーナリストの境が曖昧であることを、実例に即して的確に示すものであり、作家としての側面ばかりが強調されがちな当時の知識人たちの見方に修正を迫る刺戟的なものであった。

フロアからは、二葉亭と大庭の活躍の仕方の違い、また、二葉亭の署名記事と無署名記事の使い分けについて質問があがり、これに対して、松枝氏は、日露関係の変化とともに、作家と記者のどちらの立場で先に名を成していたのかが両者の活動の相違に反映されていた、このため、早くから作家として筆名と本名が知られていた二葉亭が時事的な記事を著す際には無署名で書かなければならなかったのではないか、との回答がなされた。

報告者:高原智史(EAAリサーチアシスタント)、石川真奈実