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2020.02.28

EAA特別セミナー「わたしたちの三十年後――世界と学問」第1日目(1)

2020年2月10日(月)と2月12日(水)、東アジア藝文書院(EAA)特別セミナー「わたしたちの三十年後――世界と学問」が開催された。本セミナーは新型肺炎コロナウィルスの影響で中止となった東京大学-北京大学集中講義の代替イベントである。10日の講演と質疑(駒場キャンパス101号館EAAセミナー室)、12日のグループワークとプレゼンテーション(駒場キャンパス1号館107号室)は、いずれも英語で行われた。今回は学部生のみならず、EAAに所属する研究員やリサーチアシスタントたちも参加した。

2020年2月10日のイベントにおいて、王欽(Wang Qin,東京大学EAA特任講師)が二つの講義を行い、昝涛(Zan Tao,北京大学歴史系副教授)がディスカッサントを務めた。一つ目の講義では、ランシエール(Jacques Rancière)のThe Ignorant Schoolmaster: Five Lessons in Intellectual Emancipation(Stanford, Calif.: Stanford University Press. 1991. 原書:Le Maître ignorant : Cinq leçons sur l’émancipation intellectuelle, Fayard, 1987. 日本語訳:梶田裕・堀容子訳『無知な教師 知性の解放について』法政大学出版局、2011年)と柄谷行人『探求I』(講談社、1986年)の第一章と第三章が扱われた。

The Ignorant Schoolmasterでランシエールは19世紀初期のルーヴェン大学におけるフランス人教師ジョセフ・ジャコトの教育活動に焦点をあてた。オランダ語を解さないジャコトはフランス語を知らないルーヴェン大学の学生たちにフランス語を教えることになった。相手と言葉が通じないジャコトはフェヌロンの『テレマック』のフランス語・オランダ語対訳本を共通のテクストにし、この書物で学ぶよう学生たちに指示した。そして不思議なことに、学生は見事にフランス語を習得した。驚いたジャコトはそこで、教師は自分さえ知らないことを教えることができると悟った。ランシエールの関心を引いたのはまさにこの出来事である。教師は自分自身も知らないことを教えるべきだ――この一見荒唐無稽なテーゼは伝統的な教育観と一線を画す「普遍的教育」のあり方を示している。王氏はランシエールの議論に沿いつつ、説明を重んじる従来の教育では教師と生徒は一種の権力関係にあって、そこには知と無知のヒエラルヒー、すなわち、教師は知識を有していることを期待されるのに対して、学生は無知だと想定されるという二項対立の構造が横たわっていると指摘した。こうした不平等な関係は教育現場にとどまらず、様々な形をとって社会的不平等として現れている。しかし、ランシエールにとって、教師と学生はもともと知的に平等であり、この平等は到達すべきゴールではなくむしろ出発点なのだ。というのも、本当の知性は自分が他者の自己確認を介して理解されるようにする力と考えられていたからだ。こうした知性の平等は書物=テクストそのものに基づき、テクストを前にする私たちの、教師の説明に頼らず自力で学ぼうとする意志の平等によって実現する。それこそ個人の解放である。テクストの彼方にあるのも、表現・翻訳する意志のみだ。ではなぜ、平等な者同士が一つの課題で違う結果・成績を出すこともよくあるのか。それは決して知性の差ではなく、課題に向けられた注意の差からくるものである。知性(intelligence)、意志(will)、注意(attention)という三つの語こそランシエールの議論のキーワードだと王氏が述べた。

次に取り上げられたのは柄谷行人のテクストである。王氏によれば、「教える」ということをめぐって議論を展開させている点ではランシエールのテクストと共通しているが、両者における「他者」概念が異なる。つまり、ランシエールの「他者」は教師との関係において無知とされる学生であるのに対して、柄谷の議論では「他者」は事前に知るものではなく、ただ逢着するものなので、あらかじめ成立した合意やコンセンサスなどない。したがって柄谷の場合、話し手の言葉が意味をなすかどうかは聞き手の反応によって決まり、そのために話し手は自分自身を他者に向けて曝け出す/開く必要があるという。こうした事態を端的に表すのは言葉の通じない外国人や子供に教えるときである。そこでは「共通の規則」は事前に決定されたのではなく、ただ偶然に形成されていく。逆にいうと、既成の「共通の規則」を前提とする同質な共同体内部の交流は自己反復にすぎず、本当の交流とはいえないから、共同体の外部に出ることは大事である。言説の規則は予知されない「飛躍」のあとに見出された以上、権威をもつ言説はどこにもなく、あらゆる関係は偶然で転換可能なものとなる。そのため、教育も一種の冒険としてつねに誤読のリスクを伴い、予定調和のものではありえないと王氏は考えた。なお、柄谷の議論が最初の個人レベルのものから次第に共同体、社会といった集団性に関わるものに移行したという点は興味深いとした。

王氏がランシエールと柄谷のテクストを以上のように解説したあと、ディスカッサントの昝涛氏は一教育者としての心構えや今日の教育手段の多様化などに言及してコメントを述べた。質疑応答の時間において、聴講した学生からはなぜランシエールやデリダのようなポストモダン思想家たちは書物への回帰を説くのかという質問が寄せられた。それに対して王氏は憲法を例に挙げながら、デリダの形而上学批判の内実を再確認する形で答えた。王氏にしたがえば、デリダの批判したパロールは西洋の思想伝統において、反復・引用・代替不可能で単一な実在とされてきたものだが、デリダからみればそれは実際どこにも存在せず、意味を可能にするのはむしろ反復可能性、引用可能性、均等性を体現するエクリチュールである。王氏はそういったエクリチュールは物理的なテクスト=書物に限られず、私たちの日常的な交流の至る所にあるものだと、本日の一つ目の講義を締め括った。

報告者:郭馳洋(EAAリサーチアシスタント)