シンポジウム「東アジアにおける世界文学の可能性」

2020年2月11日、東京大学駒場キャンパス18号館ホールにて、シンポジウム「東アジアにおける世界文学の可能性」が実施された。

本シンポジウムの趣旨をポスターから引用すると、以下の通りである。
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近代文学はその歴史的な役割を終え、文学自体が社会における重要性を失っているとの指摘が、しばしばなされている。同時に、グローバル化の進展の結果、もはや英語以外の言語は、豊かな文化的創造性をもつ言語ではなくなるとの悲観的な予測もある。
他方、近年では国民国家の文学と一線を画す「世界文学」という概念が注目されている。果たして、近代文学と言語的多様性の終焉後、私たちが直面するのはエリート層による知の囲い込みと、それが必然的にもたらす衰退なのか。それとも、知の階層構造を撹乱し、地域性と普遍性との接点をあばき出す新しい文学・文化なのか。
ここで現代日本の状況を具体的に見れば、日本語文学は東アジア出身の書き手や琉球語を取り入れた書き手によって活性化され、また韓国語、中国語で書かれた文学が新たな読者を獲得している。東アジアという単位で、新しい世界文学の可能性を構想することはできないだろうか。
本シンポジウムでは、国内外からゲストを招き、上記の問題について多面的に検討する。
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主催者はEAAのほか、EAAに所属する武田将明(専門はイギリス文学、文芸批評)が研究代表者を務める、科学研究費基盤研究B「世界文学の時代におけるフィクションの役割に関する総合的研究」であった。
休日にもかかわらず、会場には東京大学の関係者だけでなく、一般の方も含んだ多数の聴衆が集まり、集中して討議に聞き入っていた。
13時から14時まで、文芸評論家で、柄谷行人の翻訳者としても知られる曺泳日氏による基調講演「韓国文学は世界文学であり得るのか」があった。曺氏は、日本現代文学(とりわけ村上春樹)とソニー、韓国現代文学とサムソンとの同時代性など、大胆な仮説を次々に提起しつつ、現代の韓国文学と日本文学が抱える様々な問題点について、挑発的なまでに刺激的な議論を展開した。もっとも、曺氏が指摘した問題点の中には、現代文学に広く見られるものも多く、「世界文学」という問題設定自体の難しさを感じさせる内容でもあった。なお、この基調講演および、シンポジウム、総括討論において、司会は武田将明が務めた。

続いて、14:05から15:25まで、「日本語文学の多様性」をめぐるシンポジウムが実施された。日中二言語作家・翻訳家である李琴峰氏による「第二言語である日本語で世界を切り取ろうとする時」、近代日本文学史を様々な視点で読み替えている日比嘉高氏(名古屋大学准教授)による「時を語る日本語文学──記憶、環境、進化」、沖縄文学と原爆文学に関する著書のある村上陽子氏による「記憶とコトバ──崎山多美「月や、あらん」をめぐって」という3つの発表、およびその後の討議の中で、一見便利な「日本語文学」という概念のはらむ問題、ポスト・ヒューマンの時代における日本文学の問題点と可能性、沖縄の島言葉と東アジアとの接点など、様々な興味深い論点が浮き彫りとなった。

その後、15:40から17:00まで、「東アジアから考える世界文学」と題するシンポジウムが行われた。英語圏文学を研究し、ポストコロニアル文学の紹介者としても知られる小沢自然氏(台湾・淡江大学准教授)による、「東アジア世界文学は存在しない?──英語圏ポストコロニアル文学の歴史から考える」、優れた翻訳者・紹介者として、日本における現代韓国文学ブームを牽引する斎藤真理子氏による「「正論を盛る器」としての韓国文学」、現代中国文学を世界文学的な視座も交えて研究する鈴木将久(東京大学教授)による、「中国文学と世界との対話──「抒情」をめぐって」という3つの発表と、その後の討議により、「世界文学」というあまりにニュートラルな概念の持つ危うさや、「正論」を堂々と盛り込む韓国文学の視点から日本文学の常識を批評することの重要性、さらには「抒情」のような普遍的に見える概念を詳細に検討することで東アジアの文学と世界文学との葛藤を見ることの意義など、多岐にわたる論点が導き出された。

その後、17:05から18:00まで、登壇者全員による総括討論と質疑応答があったが、登壇者の発言のみならず会場からの質問も熱を帯びたものとなり、予定の時間を超過して終了した。

終了後の懇親会でも、登壇者を中心に活発な談話があり、東アジアという単位で(ただし批評的に)未来の文学を考えることの可能性を改めて実感することができた。

武田将明(総合文化研究科准教授)