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2020.05.22

【活動報告】第5回学術フロンティア講義 2020年5月8日(金)

5回学術フロンティア講義

小説と人間:Gulliver’s Travelsを読む」報告

2020年5月8日(金)、第5回学術フロンティア講義が18世紀イギリス小説を専門とする武田将明氏(総合文化研究科准教授)を講師に迎えて行われた。講義タイトルは「小説と人間:Gulliver’s Travelsを読む」である。

(画像:『ガリヴァー旅行記』徹底注釈(本文篇・注釈篇)、富山太佳夫訳、 原田範行・服部典之・武田将明注釈、岩波書店、2013年)

武田氏はまず、シリーズ講義の共通テーマである「30年後の世界」について、科学技術や世界情勢の変化は個人の願望より大きく外れるのは普通であるため、未来を予測することは困難であり、むしろ不可能であるとした。続けて参加学生に対し、300年前の世界を顧みて考えてみようとよびかけた。

300年前のイギリスの人々は、現在のわれわれと同じように感染症に襲われていた。政府の情報隠蔽で民衆の間に恐怖感が広がり、人々は自発的に人と人との接触を減らして(ソーシャルディスタンスを取るか?)、先行きが見えず、不安と絶望と闘う日々が続いた。これはイギリスの小説家デフォーの『ペストの記憶』に記された記述である。これを読むと、人間が感染症に直面する時の行動は時代・地域を超えて共通していることが自ずと感じられる。こうした人間の共通なもの、普遍的なものを研究するのは、文学を含む人文学(humanity)という学問の根本とも言えると武田氏は述べた。

今回の講義本題は、18世紀イギリス小説を通して「人間」とは何かについて考察することであった。17世紀後半~18世紀前半はイギリスの激烈な変動期であり、文学の分野においては小説という新たな文学形態が確立された。バフチン『叙事詩と小説』(1941)によると、 いわゆる「近代化」のダイナミズムで生まれた小説は、新しい時間感覚を提供することによって現実への見方を大きく変化させ、「個人的な体験と自由で創造的な想像力」で人々を魅了した。その代表こそ、『ペストの記憶』の作者デフォーの『ロビンソン・クルーソー』である。小説の主人公ロビンソンはロンドンに住む新興階級としてデフォーが仮託的に作った人間の理想像とも言える。

『ロビンソン・クルーソー』と比べると、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』は同じ奇抜な想像力をもって都市部の新興階級が夢中となっている政治、経済、社会生活ないしその基礎となる個人主義な立場を辛辣に批判するものであった。

(当日使用したパワーポイントより)

 

医師ガリヴァーの海外の遍歴を「如実」に記した4篇からなる『ガリヴァー旅行記』。その構成は人間の退化の様のように見えると武田氏は述べた。前の3篇ではイギリスの政治、科学の進展、啓蒙主義の考え方などを一通り風刺した上で、最終篇の「馬の国」では、批判の対象が「人間」そのものへと高まる。近代の人間は自分に理性があることを信じ、そこで動物と一線を画した誇りを持つが、ヤフー(退化した人間)とフイヌム(理性を持った馬)という組み合わせで、スウィフトは理性主義の人間観に対して批判の矛先を向けた。人間は理性より私利私欲のほうに走らせ、互いに意見の対立や利益の衝突が絶えない。一方、動物であるフイヌムこそは完全な理性を持っており、感情や欲望に惑わず、口論など一切なしで平和な生活を送っている。スウィフトは、近代は人間の欲望が爆発した時代でもあり、それが人間の退化をもたらすという。

続いて、武田氏は『ガリヴァー旅行記』に対する見方について話を進めた。文学者・批評家のコールリッジはヤフーは人間の一面のみを抽出したもので、デフォーのロビンソンの方はより普遍的な人間像であると論じた。さらにスウィフトが高く評価するフイヌムに対しても、かれらが意思決定に際して議論を経ず、いわゆる直感で理性に訴える姿勢は『一九八四』のような全体主義につながるのではとの意見もある。ここで、何か具体的な社会的現象を「予言」するより、スウィフトはむしろ自分の想像力を駆使して常識におもねることなく、徹底的に「人間」の限界を問いかけてこの小説を完成したのだと武田氏は論じた。同じく『ガリヴァー旅行記』ではすべてを「理性」に委ね、感情を徹底的に排除することと相反するように、夫を亡くした妻のフイヌムは(悲しくて)死んでしうというような場面もある。

文学を読むときに重要となるのは想像力である。300年前のデフォーもスウィフトも、現在のコロナショックのわれわれも、常識に囚われず大胆に「妄想」して、人間の限界を想像してよい。その想像力が人間の未来、人間の存在意義を賭けているのである、と武田氏は講義を締め括った。その後の質疑では『ガリヴァー旅行記』の当時の影響や、作品における悲観的態度、そして文学の読み方、想像力の可能性などについて意見交換が行われた。

(当日使用したパワーポイントより)

 

報告者:胡藤(EAAリサーチ・アシスタント)

 

リアクション・ペーパーからの抜粋

・文学という営みについて、短時間ですが、深く知ることができたように思います。普遍的な人間の振る舞いを考えるのが人文学であり、科学的な予想や、予言にはならないかもしれないが、未来を結果的には想像している、そんな営みなのだとわかりました。より一層、人文学に惹かれました。(文科一類~三類)

・武田先生のお話を通して、小説は、その小説を書いた本人が想像力を駆使して考えた賜物であるに限らず、それを読んだ読者にさらに想像力を駆使して考える機会を与えるものであると感じさせられました。ガリヴァー旅行記の解釈についても、時代を通して様々なものがあり、しかし、その解釈がスウィフトの意図していたものかどうかに関わらず、その解釈を想像して考えることに意味があるのだと理解しました。 お話の中で、スウィフトのガリヴァー旅行記の影響を直接的に受けて、引き継いだ作家はあまりいないとおっしゃっていました。このことは、小説がダイナミックに変化する時代に適応した文学形式であったのに対して、スウィフトの作品がかなり保守的なものであったことと関係があるのではないかと考えましたが、実際はどうなのでしょうか。 コロナウイルスに対しての現代の人間の振る舞いと、ペストの流行時の人間の振る舞いに共通性があるように、想像力を駆使して考えるという行為も、時代を超えて共通する人間の振る舞いであり、これは人間と動物を分ける違いのひとつなのではないかと考えさせられました。ガリヴァー旅行記をこれまでにない視点から捉えるきっかけを与えていただきました。ありがとうございました。(文科一類~三類)

・ガリヴァー旅行記に関する興味深いご講演ありがとうございました。この物語の中で、ガリヴァーは自分と異なる存在との関わりの中で「人間」を客観視する機会を持ち、結果、人間のどうしようもない愚かさに気づいて人間を憎悪するようになりました。しかし、私達人間は「人間」という、感情とは切り離せないものとしてすでに存在してしまっている以上、自らを憎悪するのみではなく、こういった存在としてこの世界をどのように生きていくかを模索していく必要があると感じました。それでは、私達人間は感情を持った存在としていきつつも、いかに自分たちを客観視してその愚かさに気づいていくのでしょうか?私はこの問いに対し、今回の授業のように過去の文学作品に多く触れ、先人たちの人間模様を知ることでアプローチできるのではないかと思います。文学作品からは過去に生きた人々の経験や思考が伺えるので、過去の文学作品を読むことを通じて、一人の人間としての生き方を模索していきたいなと感じました。(理科一類~三類)