「伝染病と危機時代の文学と思想」オンラインワークショップ

華東師範大学批評理論中心・東京大学東アジア芸文書院(EAA)共開催のオンラインワークショップ「伝染病と危機時代の文学と思想」が、2020年5月25日に開催された。

まず、中島隆博氏(EAA院長)がワークショップの趣旨を述べた。中島氏によると、東京大学と北京大学の共同プロジェクトであるEAAは、これから日中の間で様々に展開していく学術活動に新たな基礎を与え、共に人間の条件と社会に関しての想像力を構想し直すプラットフォームを創ろうとするものである。以下、8つの発表について報告する。

 

パネル1

最初の発表者である羅崗氏(華東師範大学)は、「国家と個人:自己隔離によっての感受と思考」と題した報告で、今回の伝染病事件と2008年に起こった中国四川省の地震を比較しながら、両事件において強調された表象の違いを述べた。2008年の事件で表象されたのが「社会」とするなら、今回の事件ではっきりしたのは「国家」であると、羅氏は見る。なぜなら、伝染病についての政策を支える技術的な発展と社会秩序の保障とネットワークの安定は、すべて国家の力によって実現された条件だからである。今までの十数年のうちに出来上がったインフラ設備といわゆる「ネット+」の発想は、今回中国の取った措置において不可欠な前提になっており、ある意味で「個人」を「国家」と関連させたのだ、と羅氏は述べた。

続いて、朱羽氏(上海大学)は「伝染病によって変わったものと変わらなかったもの:限られた自我による発想」という発表で、今回の事件に対する左翼知識人の発言を糾弾した。たしかに、左翼知識人の批判より、さらに有効性を持つものは、インフラ設備の生み出した「ニュートラル的」かつ非人間的な制度にほかならない。そうであるなら、制度の機械的な働きと人文学の言説はどのように関係しているのか、と朱氏は問うた。ここで、朱氏が引き合いに出したのは、アガンベンとByung-Chul Hanにおける生命概念の貧困化に対する批判である。「剥き出しの生」というレベルから見れば、ただ維持されるだけの人間生命と、ウイルスとを、区別することはできない。左翼知識人に今問われている重要な課題は、如何にして今回の事件を契機としてグローバル・資本主義を超克できるか、ということであろう。というのも、わたしたちはもとの秩序に「戻る」わけにはいかないからである。一方で、今回の事件は資本主義消費社会の「ノーマル」を中断させ、国家制度のメカニズムを露呈させることになった、と朱氏は指摘した。

倪文尖氏(華東師範大学)は、「なぜ私は言おうとするものがないのか:伝染病、輿論と心情」というタイトルで自身の感想を報告した。倪氏によると、われわれは中国での伝染病の流行とそのコントロールをいくつかの段階に分けていくべきである。そのためには、共和国への政治的アイデンティフィケーションが不可欠なものとなるが、中国国内ではこの問題がずっと解決されないままでいる、と倪氏は強調した。今回の事件において、医師と民衆の協同関係は、共和国としての中国がもっとも重視すべきポイントである一方で、この側面を含めて、左翼知識人が如何に今回の事件に対して発言すべきかがますます難問になっていくと氏は論じた。いまわれわれに必要なのは、魯迅がいう「横の姿勢で立つ」ことであり、普遍性を決して見捨ててはならないという態度である。また、倪氏はここで「普遍性」とは、闘争を通じて獲得されるべきものであると強調した。

 

パネル2

次のパネルは発表者である石井剛氏(EAA副院長)の発表から始まった。「伝染病の歴史的ナラティブと無情な“疫病抑制”」と題された発表で、石井氏は、伝染病のもたらした恐怖と焦燥を、個人的な気持ちとして他者と共有するためには、物を書くという仕方を取らねばならない、と主張した。「情」をもって物を書くことは、古代の詩人である屈原のいう「発憤以抒情」に関わる。屈原における「情」は、「感情」だけでなく「実情」、つまり現実の状況をも指している。「自己封鎖」の中にあって、われわれの「情」はどこにあるのか、と石井氏は問うた。さらに石井氏は、Alfred CrosbyのAmerica’s Forgotten Pandemicなどのテクストに触れ、奇妙なことに、国際的な伝染病は往々にして記録・記憶されていない、と指摘した。しかも、経済的に発展した国家は流行をある程度コントロールできるが、貧乏な国家は必ずしも同様の政策を取ることができるとは限らない。国家が弱ければ弱いほど、伝染病の実情に直面させられていることは、目下の事実であると石井氏は指摘した。

朱康氏(華東師範大学)の発表は、英語の「Isolation」をめぐる言葉遊びとして、この語彙を「自己、気体(ゾル)、孤独と団結」と独自に解釈して論を展開したものであった。自己隔離の期間に、朱氏は娘との「家庭団結」をむすんだ、と朱氏は述べた。伝染病の流行は事件と危機として、個人と経済と政治のレベルで緊急事態をもたらしたが、ルソーの『告白』を例にとりながら、朱氏は別の側面を強調した。それは、ルソーが検疫所を自分の「島」と見なしているように、しかも、「島(Island)」がもともと「Isolation」に関わっているように、近代政治においては、人々にとって「検疫」とは時間的装置である一方で、「隔離」は空間的装置である、ということである。「検疫」と「隔離」はともに14世紀に制度化されたものであり、モダニティーの現れである、と朱氏は述べた。この意味で、「Isolation」は群れの隔離を指しながら、検疫の結果としての個人的隔離をも指している。つまり、実は「Isolation」はわれわれの生活のありとあらゆる細部に滲透している。われわれは既に・常に個人として「島」化されたものであり、共有している「世界」など存在しない、と朱氏はジャック・デリダの論述を引用しながら唱えた。最後に、如何にして隔離からさらに自分を「隔離」させて、隔離に抵抗する術を身につけるかということが、「孤独」を「団結」に結びつける要だ、と彼はいった。

続いて、鈴木将久氏(東京大学)は「疫病の時期に魯迅を読み直す」と題された発表で、1927年の大革命の時期に魯迅の書いた『革命時代においての文学』に触れた。鈴木氏は、魯迅は文学の無用さを論じているかのように見えるが、実は、竹内好が論じているように、魯迅が言わんとするのは、文学が自らの政治に対する無力さを自覚するとき、逆説的に「力」をもつようになるということだ、と強調した。また、魯迅の小説『祝福』のなかで、「祥林嫂」が知識人としての主人公に三つの問題を投げかけた場面は、魯迅の小説における最も面白い場面の一つである、と鈴木氏は述べた。なぜなら、一方で、魯迅はここで主人公の代表している啓蒙思想に対して批判を加えているが、他方で、語り手が自らの無力さを自覚するようになる契機もここに同時に存在しているからである。「祥林嫂」は自分の実世界を持つが、知識人の語り手はこの世界へ入ることもできないし、理解することもできない。これに対して、二年後に書いた『無常』で魯迅は自分が実は「祥林嫂」の世界を子供の頃に共有したことを示唆している、と鈴木氏は指摘した。言い換えれば、魯迅は啓蒙や近代思想の限界を意識しているが、「祥林嫂」の世界への親しみを示している。魯迅の論じた「無常」と「科学」の関係なき関係は、われわれに思索の手掛かりを与えるかもしれない。

 

パネル3

毛尖氏(華東師範大学)の発表「末端組織の管理と伝染病の政治:スローガンと罰をめぐって」は、各国の宣伝スローガンに着目した。毛氏によると、アメリカのスローガンは個人に、イギリスのそれは「隣人」にアピールしているのに対して、中国のそれは「疫病抑制のための人民戦争」という、敵友関係を強調した革命的文法を踏襲するものとなっている。結果として、国家と社会と個人のそれぞれのレベルで、中国は有効なスローガンを複数作り出し、民衆の医療に対する認識を深めることに役立った、と毛氏は指摘した。その上で、注意すべきは、これらのスローガンは必ずしも国家イデオロギーとして提出されたものではなく、むしろ末端組織の行った社会的管理の一部として作り出されたものだ、ということである。ただし、中国の社会主義的歴史経験なしには、それらのスローガンは想像しえないものであった、と毛氏は強調した。最後に毛氏は「このような敵友関係は普遍化され得るものであるのか」、「防疫の「人民戦争」は政党の代表性を立て直すことができるのか」、「左翼政治はまだ可能なのか」という以上三つの問いを提起して発表を終えた。

最後に、林凌氏(復旦大学)は「政治と輿論:伝染病を背景とした思考」と題して発表した。今回の伝染病は、われわれに政治について考え直す契機を与えた、と林氏は指摘した。氏は、これまで政治概念と見なされてこなかった「規模」概念を、今後政治を考える際に不可欠な概念として導入すべきであると主張した。なぜなら、「規模」は、権力の集中や権威の確立、そして民衆の支持といった問題に密接に繋がっているからである。さらに、輿論と宣伝について、われわれも考え直さなければならない。なぜなら、本当の「宣伝」はスローガンが現れる前に、すでに感情や信仰に訴える言説として働いているからだ、と林氏は指摘した。

全体討議では、羅氏は、今回中国政府の出したスローガンが、実は「大国防疫」から「人民戦争」のようなレトリックへ転じたことを指摘した。この二つの原説が今回いかに機能したかという問いは、これから研究すべき課題であろう。それに関連して、今後の知識人の課題は、エコロジーのレベルで国民国家を超えて人間と環境の関係を考え直すことであり、他方では、新しいチャレンジに際して、人間社会の組織形態についての論述、とくに左翼理論を更新することである、と羅氏は述べた。また中島氏は、アガンベンの強調した「人民」概念を取り上げ、いま進行している生命の「健康化」と「脱政治化」における人民の欠席、つまりただ「代表」されているにすぎない人民を問題にした。いかにして「人民」を表象すべきか、あるいは「人民」の表象を想像することができるのか、と中島氏は問いを投げかけた。最後に、石井氏は、中国政府の取った措置に潜んでいるある種の「群衆路線」に触れた。世界全体が政治体制の更新・再考を迫られる中で、いかにして中国の「群衆路線」のもつ世界史的意味を叙述することができるか、という開かれた問いを提示し、本ワークショップを終えた。

報告者:王欽(EAA特任講師)