【活動報告】東京学派ワークショップ「江湖・無縁・アゴラ——松方冬子『普遍、アゴラ、グローバル・ヒストリー』によせて、もういちど『自由』の在処を探す」

2020年7月15日、ワークショップ「江湖・無縁・アゴラ——松方冬子『普遍、アゴラ、グローバル・ヒストリー』によせて、もういちど『自由』の在処を探す」が開催された。COVID-19の流行が続く中、当初予定されていた対面形式での開催は断念し、Zoomウェビナーでの開催となった。

本ワークショップは、中島隆博氏(EAA院長)が代表者を務める科研費基盤研究B「東京学派の研究」主催(EAA共催)のもと、松方冬子氏(史料編纂所准教授)によって企画された。「京都学派」とは、中島氏によれば、哲学者・戸坂潤によって提唱された、西田幾多郎に代表される京都大学のグループに対する批判的な概念である。それに対して、「東京学派」とは耳慣れない概念であるし、西田のような中心を持ったグループとは言い難い。にもかかわらず、あえて「東京学派」を研究するのは、近代日本の学知を振り返る上で、東京大学を含む東京において展開された学知が一体何を為してきたのかということが、今一度批判的に問われる必要があるからである。

こうした文脈を踏まえて、企画者の松方氏は、連載エッセイ「普遍、アゴラ、グローバル・ヒストリー」(東京大学出版会月刊誌『UP20202月号から5月号まで全4回掲載)に即して、次のように問題提起を行った。学問とは、議論のための公共空間を必要とするものである。しかし、この公共空間は、無意識のうちに「アゴラ」的なるもの、つまり、古代ギリシアに淵源を持つ「西欧」的なるものとして、極めて限定的なイメージのもと捉えられてきたのではなかったか。近代以降、「日本」における学問は、無意識のうちに「西欧」的なるものを想定し、そこに自らをフィットさせていく態度に規定されてきたのではないか。松方氏は、こうした無意識の前提を批判的に考察することを通して、「危機」に晒されていると言われて久しい人文学のあり方を再考する重要性を説いた。「アゴラ」という西欧由来の「自由」な討議空間の限界は、そこに入る資格を持つ者と、そうでない者とを選別し、排除してしまう点にある。「民主主義」や「市民社会」という普遍的概念・理念は、「アゴラ」的なる場所を基盤として成立してきた歴史を持つ。これらの理念をアップデートするために、松方氏は、オルタナティブとして参照し得る次の二つの概念について言及した。ひとつは、歴史家・網野善彦によって提唱された概念である「無縁」、いまひとつは、中国文学・哲学において議論されてきた「江湖」と呼ばれる空間である。

 

松方冬子氏

「江湖」と「アゴラ」のイメージ

 

松方氏の提議に対して、内田力氏(東洋文化研究所特任研究員)・大木康氏(東洋文化研究所教授)・石井剛氏(EAA副院長)、以上3名の登壇者がコメントを寄せるという形式で、議論が行われた。

 

内田氏は、網野が「無縁」という概念を提唱するに至った背景にある、「アジール」(asyl、あるいはasylum:避難所)という概念の系譜を辿った。内田氏によれば、近代日本、とりわけ東京帝国大学における「アジール」論は、人類学、法制史における議論を経由して、文学部系の歴史学に引き継がれたという来歴を持つ。言い換えれば、近代日本における「アジール」論は、人類学という、まさに対象を「客体」として観察・分析する態度と、過ぎ去った時代(ここでは特に中世、あるいは江戸時代が言及された)を「過去」として客体化・歴史化して語る態度が交錯する地点において浮かび上がるものであった。網野は、こうした「東京学派」的な言説を批判的に受け継ぎ、再構成することによって、「アジール」あるいは「無縁」という観点から、「日本史」を描き直すというプロジェクトを遂行した。

続いて大木氏は、中国における「江湖」という概念の系譜について検討した。「江湖」とは、『荘子』における次の一節に由来を持つ言葉である——「泉涸,魚相與處於陸,相呴以溼,相濡以沫,不如相忘於江湖(泉の水が涸れると、魚たちは、土の上に身を寄せ合って、たがいにあぶくで身を濡らしあう。そんな状態より、「江湖(川や湖)」で相手のことなど忘れて泳ぎまわっている方が快い)」。しかし現在「江湖」という概念によって想起されるのは、「黒社会」(裏社会)、あるいは易者、薬売り、手品師、大道芸人、ペテン師、旅芸人といった、「表社会」からはこぼれ落ちてしまう空間、あるいはそこに暮らす人々である。具体的には、『水滸伝』における好漢たちと「梁山泊」といったイメージである。

内田力氏

大木康氏

大木氏の議論を引き継いで、石井氏は、古代中国における宇宙観「天円地方」を参照しつつ、次のように議論を展開した。「天は円(まる)く、地は方形(四角)である」というこの宇宙観は、必然的に「余剰」、あるいは把握し得ない領域というものを内包している。なぜなら、円と方形は重なり得ず、必ず隙間が生じるからだ。このような中間的領域、つまり「文」あるいは「野」のいずれにも収まらない空隙こそが「江湖」なのである。このような、言ってみれば把握しがたい概念としての「江湖」を、今再び議論するための手がかりとして、石井氏は劇作家・詩人のブレヒトの詩「老子出関の途上における「道徳経」成立の由来」の一節「あの水というのは いったい何なのですか、老師よ?」に言及し、次のように述べた。「江湖」とは、変化する「水」である。「江」(河川)も「湖」も、静的なものではなく、その姿を変え続ける動的なものである。思想家・ベンヤミンは上記のブレヒトの詩に言及する中で、その中心的なモチーフとなっている「水」を、人文学が扱う「テクスト」に重ね合わせた。それは、柔らかく弱いけれども、盤石な秩序を穿つ力を秘めるものである。テクストを読むという行為は、「江湖」のように、空隙・間隙に在って、なおかつ世界を根底から変え得る力を持つ。

石井剛氏

「天円地方」のイメージ 参考:葛兆光『中国再考——その領域・民族・文化』岩波書店、2014年。

4名の登壇者による発表ののち、白熱した全体討論が行われた。松方氏の発議は、西欧由来の価値基準に自らを「同化」させつつ、一方で「日本」という主体を立ち上げようとしてきた近代日本の学知の、複雑に入り組んだ来歴を再検討することにあった。「アゴラ」からこぼれ落ちる場所としての「江湖」あるいは「アジール」「無縁」といった場所を、どのように共存させていくか、という課題は、「西欧」対「日本」という図式をどのように克服するかという課題と重なる。中島氏は、「アゴラ」にせよ「江湖」にせよ、本質的に規定され得るものではなく、獲得される場所として想起されるべきであると述べた。より具体的に言えばそれは、「言葉」を獲得するための場所、すなわち新たなる言論空間を創出しようとするプロセスそのものである。そこにおいて必要なのは、「西欧/日本」「中国/日本」といった二者間の比較ではない。必要なのは、二者間の比較に揺らぎを与える「三点測量」的観点である。それは決して静的なものではなく、いつ崩れ落ちるかもわからないものである。したがって、それは創出し続けようとする意志がなければ存在し得ない空間である。このような場所は、複数の言語が混淆することによってのみ創出可能である。参加者の資格を選別し、「内」と「外」を分けるような権威的な態度を葬り、全ての人に学問を開く動的な言論空間を創出するという意志を、人文学は持つことができるか。人文学の覚悟が、今、「パンデミック:pandemic=pan+demos(すべての+ひとびと)」の時代に問われている。

 

報告者:崎濱紗奈(EAA特任研究員)