羽根次郎氏『物的中国論:歴史と物質から見る「大国」』(青土社、2020年)合評会

2020年9月3日の午後2時から、わたしが研究代表を務める科研費基盤研究(B)「グローバル化する中国の現代思想と伝統に関する研究」との共催で、羽根次郎氏(明治大学)の新著『物的中国論:歴史と物質から見る「大国」』(青土社、2020年8月刊行)の合評会を行った。

この科研費研究では、「中国がグローバル化する」という命題を「中国」と「世界(globe)」双方の変容プロセスであると理解した上で、今日わたしたちが経験しつつある現実にとって、その変容がどのような様相を呈しているのかについて、哲学的に問いつづけている。2017年にスタートしたときには、この命題を「中国国内にグローバル化の影響が浸透する」という意味であると誤解されることのないよう、中国自体がグローバルな影響力を強め、それによって哲学のパースペクティヴにも変化が生じていることを明らかにしたいのだと説く必要を感じていたが、現在のCOVID-19パンデミックが中国国内に流行の震源地を持っていたことが象徴的なように、中国という自明なようでいて実は捉えがたい、実体とイメージが渾然とした対象が、グローバルにその影響を浸透させて行っていることは、いまや多くの人にとって明らかになったように思う。感染者の隔離、ロックダウン、個人の行動履歴に対するテクノロジー管理など、中国政府が感染封じ込めのために行ったとされる対策が世界に知られた結果、「ヨーロッパの直面する課題は、中国の行ったことはより透明且つ民主的な方法で行われうると証明することである」(スラヴォイ・ジジェク)という揶揄すら登場したのだ。

しかし、わたしたちは「中国」について一体どれぐらいの事実を理解しているのだろうか。ジジェクが言い、また多くの人もそうイメージしているであろう「中国の行ったこと」は、「中国の行ったこと」の現実をどこまでまともに捉えきれているだろうか?そもそも、「中国とは何か?」という疑問に答えることすら難しいなかで「中国の行ったこと」という言表は、その主語が何を示しているのかすらも実はよくわからない。個々の主張に対してはさまざまな反論があるにちがいないし、反論が出てくることが望まれるが、本書は、わたしたち読者に対して、「中国」なる対象へのアプローチのしかたを反省するように迫っている。「中国本」が数多ある中で、このような警告を発しているものは決して多くない。

会はまず、わたしから本書全体に関する批評を提出した上で、著者の羽根氏に再応答していただくことに始まり、参加した全員が発言してディスカッションするかたちで行われた。参加人数は9名と少なかった分、2時間濃密な議論が繰り広げられたと感じている。詳細の紹介は省くが、書名に掲げられている「物」という漢字概念が含みこまざるをえない諸相の複雑な乱反射の一端もしくは数端にそれぞれの発言者がそれぞれのしかたで反応した。それらは、「人」であり、「文」であり、「音」であり、「数」であり、「科学」でもあった。『荘子』にある有名な「胡蝶の夢」が示すように、「物」はそれ自体「化」していくものだ。しかし「化」していくというのは単に「諸行無常」であり、したがって畢竟するところ斉一であり、だから無に帰すものだ、ということにはならないだろう。たしかに「物」はある。「化」しながらあるのだ。そうした「物」として「中国」に近づこうとする試みは、同時に「我々自身の問題」(本書295ページ)を考えることにつながる。「「普遍」とは外部にあるのではなく、同じ人間としての自分」(本書16ページ)から出発すべきだと述べる著者に共鳴しつつ、前提を取り払って「中国がグローバル化する」ことについて考えるためにも、「物」は不可欠な媒介として機能するだろう。

なお、イベントは対面とオンラインを併用するかたちで行われた。

報告者:石井剛(EAA副院長)