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2019.08.23

EAAフォーラム「東アジアから考える世界文学と世界哲学」

2019年7月23日午前に行われたEAA設立記念セレモニーに続き、同日午後、東洋文化研究所にて「東アジアから考える世界文学と世界哲学」と題するEAAフォーラムが開催された。これは、本書院の設立を記念して3月に北京大学で開かれたPKU-UTokyo Joint Program of East Asian Studies Launching Conference & Young Scholar Workshopに続くものである。「EAAフォーラム」の目的は、新しい「東アジア学」を徹底的に議論することを通して、東アジアにおける新たな「知」の模索と発信をすることにある。この日は、EAAに中心的に関わっている両大学の研究者らが集まり、世界文学と世界哲学に関する報告と討論を行った。

EAA副院長の中島隆博氏の挨拶後、本書院の哲学・宗教リサーチユニットで活躍している伊達聖伸氏(東京大学)の司会で、まず世界文学について張旭東氏(北京大学・ニューヨーク大学)が報告を、それを受けて鈴木将久氏(東京大学)がコメントを行った。

 

張氏は、“Of Animal, Machine, and Ghost: World Literature and the Future of Humanity in Lao She’s Camel Xiangzi”(「動物・機械・幽霊:老舍『駱駝祥子』に見る世界文学と人文学の未来」)と題する発表を行った。今日に至るまで中国人の心に訴え、中国近代文学の中でおそらく最も影響力のある老舍(Lao She)の『駱駝祥子』(Camel Xiangzi, 1937)をもう一度「批判的」に読み直すことで、新たな人文学と世界文学の想像力が可能になるのではないかと張氏は述べた。そのために、張氏は一般的に問われる“Who is Xiangzi?”(「祥子とは誰か」)の代わりに“What is Xiangzi?”(「祥子とは何か」)という問いを立て、人道主義的でありながら現実主義者である小説の主人公、祥子の人物像に焦点を合わせるのではなく、祥子において描かれているテーマそのものが「何であるのか」を問うべきであると主張した。この問いのもとで、より具体的な四つの問い-1) Is Xiangzi a human being?(祥子は人間か)2) Is Xiangzi an animal?(祥子は動物か) 3) Is Xiangzi a machine?(祥子は機械か) and 3) Is Xiangzi a ghost?(祥子は幽霊か)-を検討し、『駱駝祥子』は今の時を生きている我々に依然として新たな意味を示唆すると張氏は論じた。特に、力車に対する祥子の感情と思いは、人間と機械、人々との連帯、個人と社会、人と労働といった様々な関係と矛盾を取り上げ、結局のところ、「国はどこにあるのか」という問いに私たちを導くとした。資本主義や近代国家が完成されていない時代に、老舎は『駱駝祥子』を通してそれらの本質を警告したかのようであった。

 

 

この発表を受けて、鈴木将久氏は『駱駝祥子』とモダニズムおよび動物性に関するコメントを述べた。まず鈴木氏は、文学における「モダニズム」はこれまで西洋中心主義的な視点から説かれてきたものであり、それを解体していく必要があると指摘した。張氏のこのような試みのように、魯迅などの他の中国文学もその意味を改めて読み解いていくことが重要である。そして鈴木氏は、最近文学において表象としての動物を取り上げる傾向が強い中、ラクダを登場させた老舎の意図に注目し、ラクダに対する同情心などの感情をどのように解釈すれば良いかについて議論を深めていくことを提案した。

参加者からは、『駱駝祥子』に出る都市「北京(当時の北平)」の地理的・文学装置的意味や、祥子が機械ではなく「何か(something else)」であり、それが「個人性」という意味における「幽霊」だとすると、それに対して老舎が望んでいた解決策とは何だったのかという問いが出され、興味深い議論が行われた。

二人目の報告者、納富信留氏(東京大学)の報告タイトルは“Promoting World Philosophy” (「世界哲学を促進する」)であった。報告内容は主に、World Philosophy(世界哲学)とは何か、World Philosophyをめぐるこれまでの納富氏らの活動、Worldの5つのとらえ方、将来の課題についてであった。報告後は、李猛氏(北京大学)によるコメント、参加者からの質問が寄せられた。

納富氏はまずWorld Philosophyとは何かを問う。それは単一の哲学でも、各地域の思想の寄せ集めでもない。それは「西洋哲学」という意味でのPHILOSOPHYを超えた哲学の構想、世界における様々な哲学的体系・伝統の再構成である。

ここで、Worldは5つの意味・問題系において考えられる。第一に、GlobeとしてのWorldである。地理的・文化的に欧米中心的なものから世界へ、東洋/西洋の枠を超えて多様性かつ普遍性が追求される。第二に、UniverseとしてのWorldである。自然科学者との協力において、環境・人間・生命が問われる。第三に、TimeとしてのWorldである。「世界」の「世」には、世代・時代というように時間的次元が含まれることを鑑み、世代間倫理、進化倫理が問われる。第四に、Our LifeとしてのWorldである。衣食住、ポップカルチャー、SNSといったものを含む日常生活において、いかによく豊かに生きるか、「幸せ」が問われる。第五に、ThemeとしてのWorldである。ヤスパース、ハイデガー、マルクス・ガブリエルらが問うてきたWorldという哲学的テーマが問われる。

さらなる課題としては、World Philosophyをどの言語において行うか、日本人がイギリスにおいてギリシャ哲学を研究するという場合もWorld Philosophyとみなすか、日本哲学・漢字文化圏の可能性といったものが挙げられた。

納富氏の報告を受けて、李猛氏は納富氏の試みの意義を指摘しつつ、次の点も指摘した。それらは、1. アリストテレスが科学と哲学、すなわち分析するものと全体を扱うものを区別していたということ、2. ヘーゲルが東洋には哲学がないとしていたこと、3. 普遍性を求める世界哲学とは “utopian” philosophy、すなわち具体的な場所に根ざさない理想的・非現実的なものになってしまうのではないかというものであった。

李氏のコメントに対する返答の中で、納富氏はまず自らのギリシャ哲学研究の動機を話した。なぜ哲学はギリシャで生まれ、ギリシャ哲学が「哲学」であるとされているのか。他に数多くの形がありうる哲学に対して、ギリシャ哲学にはどのような特徴があるのかが、納富氏が抱える根本的関心であり、それがWorld philosophyのプロジェクトにも通じている。またutopian philosophyについては、全ての人が共に対話する哲学が理想的であるが、現実にはどこかの場所に根付いて行われるしかなく、その場所的・文化的特殊性こそが取り組まれるべき問題でもあると回答した。最後に、哲学と科学との関係は今日の大きな課題であり、今後も考えるべき難しい問題であるとした。

参加者からは、どこまでを「日本哲学」とみなすかという質問が挙がった。納富氏は、日本哲学を京都学派といった近代的なものに限らず、古典文学などにも広げて包括的にとらえたいと答えた。今回の報告を聞いてWorld Philosophyに高い関心をもったという院生も現れ、今後の展開が期待される報告となった。

報告:具裕珍(EAA特任助教)・犬塚悠(EAA特任研究員)