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2019.09.05

EAA Forum with Young Scholars visiting UTokyo

2019年8月30日、東京大学赤門総合研究棟にて、EAAフォーラムが開催された。この度のフォーラムでは、東京大学に訪問研究員として滞在中の三名の若手研究者(Ju-Ling Lee氏、Kyle Peters氏、Michael Facius氏)による発表が行われた。冒頭の挨拶で、彼らの受け入れ教員である中島隆博氏(EAA副院長、東洋文化研究所教授)は、EAAという場が、若手研究者の交流のプラットフォームとなることへの期待を述べた。
はじめに、Ju-Ling Lee氏による発表“Image, Body and Colonialism: Taiwan under Japanese rule”が行われた。植民地下における身体表象について考察する本発表では、特に、植民地台湾において発行されたポストカード「台湾美人」および「生蕃美人」をめぐる考察に焦点が当てられた。これらのポストカードは、植民者日本が植民地台湾に対していかなる眼差しを向けてきたのかを如実に語っている。「台湾美人」には、現代風な髪型をし、足元にはハイヒールを履いた女性が旗袍(いわゆるチャイナドレス)を着せられて写っている。ここで女性は、帝国日本によって与えられた「近代」を謳歌する存在として描かれつつも、植民者が求める台湾像——エキゾチックな存在——として表象されている。一方の「生蕃美人」は、顔面に入れ墨をし、彼女たちの伝統的な衣服を着せられて写っている。この表象は、「生蕃」の「野蛮」さを強調し、「野蛮」な存在に対する「文明」の伝道者としての植民者日本を正当化するために利用されてきた。Lee氏は、比較対象として、フランス領インドシナで撮影された別のポストカードを提示した。そこには、半裸の女性が無気力に横たわっている。「台湾美人」が、日本による近代化(あるいは「文明」化)の成果を強調しているのに対し、インドシナの女性は、より「遅れた」「未開の」存在として、エキゾチックに演出されている。報告者が興味深く感じたのは、植民者日本の「近代性」という問題だ。Lee氏が指摘したように、大日本帝国自身が後発国であり、他の列強諸国に比べると近代化に遅れを取っていた。それゆえに、日本が植民地において近代的統治者として振る舞おうとするとき、ある種の滑稽さが伴う(例えば植民地台湾において、裸で街を闊歩していた内地人たちを、台湾の人々が滑稽に感じたという事例が紹介された)。身体とは、本来不分明である内地と植民地との間の境界線が、恣意的かつ暴力的に引かれる場としてあるのだ。

次に、Kyle Peters氏による発表“Early Nishida Philosophy and Autopoiesis: On Two Frameworks of Self Formation”(「初期の西田哲学とオートポイシエスー自己形成の二つの形態」)が行われた。本発表は、存在論的立場から、西田幾多郎の哲学における「自己形成」概念に着目し、その内容を「元来一の活動」と「体系的な発展」という二種類に分けて考察することを目指したものであった。Peters氏によれば、「元来一の活動」とは、「内面的な潜勢力・潜在性によって自ら発展・完成する活動」であり、他方、「体系的な発展」とは、「個物と個物の間、そして個物と全体のダイナミック的・相互的な限定によって自ら発展・完成する活動」を指す。Peters氏は、前者を植物の種子、後者を根・葉・幹・枝と樹全体との関係性に例えて説明した。種子は、発芽し生長していくという潜在性を内包している。こうした潜在性の中から、実際に現れでるのが「現実」であるが、西田は、潜在性と現実性を含みこむものとして「実在」を考えた。このように考察することによって、「個」という存在は、単に個々別々に単独的に存在しているのではなく、その実在を介して、他の一般性へと発展していくものとして理解することが可能になる。このような「個」が複数存在し、全体性を構成する活動というのが「体系的な発展」である。ここでは、「一」と「多」、「多」と「一」が、互いに排他的にではなく、相互的に関わり合っている。「個」に秘められた潜在性と、そこから現実化されたものとが、ダイナミックに関わりあう活動である。Peter氏は、西田哲学のこのように解釈した上で、同時代の文化・思想活動と西田哲学との関係性を分析し、戦間期日本における社会のあり方について考察したいと述べた。オーディエンスからは、西田哲学における全体性の問題や、ヘーゲルやシェリングといったドイツの哲学者たちとの比較・相違についてのコメントが寄せられた。また、同席した佐野雅己氏(東京カレッジ副カレッジ長)からは、自らの専門である物理学と西田哲学の対応性についての貴重な見解が提示された。

最後に、Michael Facius 氏による発表“Narrating Edo pasts: Between history and historying”が行われた。Facius 氏は、「江戸」という時代に対するアカデミックなアプローチとして「learning from Edo(江戸から学ぶ)」、「Edo and popular culture(江戸とポピュラーカルチャー)」、「History, representation, and politics(歴史、表象、政治)」という三つの態度に分類した上で、特に「江戸とポピュラーカルチャー」についての豊富な事例を紹介した。ここで重要なのは、「historying」という概念である。直訳すると「歴史する」ということだが、ここでは、社会的・文化的に構成されるものとしての「歴史」という意味が込められている。本発表では「江戸」が、国内外においてコンテンツとして表象・消費されている事例が紹介された。例えば、日本においては「江戸」をモチーフとした大河ドラマやテーマパークが人気を誇っており、その人気は「江戸文化歴史検定」なる検定試験が開催されるに至るほどである。また、Facius 氏はヴィデオゲームの事例を取り上げ、当時の服装や生活の様子を忠実に再現することにこだわった作品は、国内にとどまらず、海外のプレーヤーの人気も集めていることを紹介した。オーディエンスからは、このような「historying(歴史する)」という事象は、「江戸」以外の時代・地域(たとえば「平安」時代や、植民地下の台湾)においても見られることか、それとも「江戸」というコンテンツ特有の事象というべきか、という質問が寄せられた。また、「江戸」という時代への回顧は、時に、自らにとって都合の良い「美しい歴史」を創出するという政治性も伴うのではないかという指摘もなされた。


休憩なしの三時間という長丁場ではあったが、全体を通して、活発かつ有意義な議論が行われた。このような機会の積み重ねによって、EAAがより領域横断的で多様性に富んだ場へと発展していくことを期待したい。

報告者:崎濱紗奈(EAA特任研究員)