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2019.12.04

韓国出張報告②:済州島ダークツアー・スタディツアー

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韓国出張報告①はこちらをご覧ください。

翌16日からは三日間かけて済州島でのフィールドワークを行った。済州もまた、沖縄のように「辺境」であったのだろうか。(「辺境」という概念についての詳細は、報告ブログ①をご覧ください。)向井氏が言う「辺境」は、制度上は「内地」であった沖縄について、その奇形的な資本主義への包摂のされ方を指し示した概念であることを考えると、植民地朝鮮の一部であった済州を、直ちに(沖縄同様の)「辺境」と呼ぶことはできない。しかし、あえて両者の共通項を指摘するならば、済州もまた、放置・遺棄された場所として考えることは可能なのではないか。少々乱暴に言うならば、沖縄が「内地」における「辺境」ならば、済州は「植民地朝鮮」における「辺境」として考えることができるかもしれない。植民地朝鮮の中にあって、とりわけ貧しい地域であり続けた済州からは、日本本土(その代表的な渡航先は大阪であった)多くの人々が賃金労働者として奔出していった。京城(ソウル)や平壌へ出るよりも、船一本でたどり着ける大阪の方が近かったからである(日本と済州島との関係については、次の書籍の第4部を参照:梁聖宗ほか編著『済州島を知るための55章』明石書店、2018年)。日本の敗戦を境目に、大日本帝国が構成したこのような空間的広がりは、人々の頭の中から忽然と消失してしまったように見える。しかし、「4.3事件」、そしてこの出来事を契機として日本へ脱出せざるを得ず「在日」となった人々の経験と歴史を考える上で、このような空間をいま一度思い起こすことがきわめて重要であることを、今回の出張では再確認した。

金石範『海の底から、地の底から』(講談社、2000年)。軍事政権下、「4.3事件」について語ることがほとんど不可能な中、はじめに重い口を開いたのは、在日の人々だった。画像は講談社BOOK倶楽部ウェブサイトより:http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000179893

 

玄基榮『順伊おばさん』(新幹社、2012年)。 軍事政権下の韓国において「4.3事件」をテーマとして扱った初めての作品。1978年発表。筆者の玄基榮はこの作品を発表したことによって拘束された。 画像は新幹社公式ブログより:https://shinkansha.exblog.jp/18229613/

先述したように、「4.3事件」は、未だ名称が定まらない出来事に仮に付けられた名前である(韓国では「4.3」というように、日付のみで語られることも多くあるとのことである)。朝鮮半島南部に大韓民国を建国するための選挙(アメリカによって先導された、いわゆる「単独選挙」)に反対し、自らの自治を求めた人々に対して、警官隊が発砲したことを契機として始まったこの事件は、最終的に6万人にも及ぶ犠牲者を生んだ。南朝鮮労働党が組織する武装隊が、島の「アカ」化を誘導しているとして、軍警(およびそこに組織された討伐隊)が島民に対する大粛清を行った結果だった。一方で、武装隊による村民の殺戮も行われた。誰が「アカ」でそうでないのかという探り合いは、女性・子供・老人を含む全ての人々を巻き込み、済州の共同体を引き裂いた。

4.3平和記念館の礎。犠牲者の名前が刻まれている。ただし、武装隊に参加した者の名は、一旦刻まれはしたものの、その後消去された。

4.3平和記念館の母子像

済州島の受難は「4.3事件」だけではない。「レッド・アイランド」とみなされた済州島では、朝鮮戦争開戦に伴う予備検束によって、共産主義者だと疑われる人物百名以上が処刑された。

軍事政権下の韓国においては、「4.3事件」について語ることもできず、何十年もの沈黙を強いられた。80年代の民主化闘争を経て、2000年、キム・デジュン大統領のもとで4.3真相究明特別法が制定され、ようやく真相解明のための調査が本格的に行えるようになった。

予備検束者の慰霊碑・墓(百祖一孫の墓)。ここに限らず、慰霊碑のそばには、必ずといってよいほど大韓民国の国旗がはためいている。軍事政権下において「4.3」を語ること、慰霊することさえもタブーだった時代、国旗を掲げることによって、国家への反逆心が無いことを証明する拠り所となった。しかし、こうした文脈とは別のところで、「4.3」を大韓民国の歴史として語る姿勢も昨今登場している。単独選挙への反対を契機として起こった「4.3事件」を、大韓民国という国民国家の語りに回収することには、批判の声もある。

予備検束者の処刑地。左手にある二つの穴は、もともと日本軍が掘ったもの。処刑後、この穴に遺体が埋められた。犠牲者の中には、海に流された者もいた。済州島から程近い対馬にも遺体が漂着したという。

2003年、ノ・ムヒョン大統領は大統領として初めて、島民に対して正式に謝罪を行った。しかし、この事件について、どの立場からどのように語るべきかということについては、未だ決着はついていない。当時の軍・警察の立場から言えば「4.3暴動」であるが、反対に、南労党の立場からすれば「4.3民主化闘争」である。また、特定のイデオロギーに与したわけではないが、自治を求め立ち上がった人々もいたであろう。様々な立場が錯綜し、未だ過去の歴史として語ることができないのが「4.3事件」である。それゆえ、済州4.3平和記念館の最初の展示室にある「白碑」には、4.3に対する「正しい名」が未だ刻まれずに横たわっている。

 

未だ名前の刻まれることのないまっさらな碑石

最終日のフィールドワークでは、カンジョン海軍基地周辺を見学した。2007年にカンジョン村が候補地として選定され、2017年に完成した。建設に至る中、住民に十分な説明がなされなかったこと、また、サンゴ礁の破壊といった環境問題があることなどから、住民・市民団体による反対運動が続けられてきた。現地を案内してくださった聖フランシス平和センターの方の説明によると、カンジョン基地は、在沖米軍基地、在グアム米軍基地と連動する形で、東アジア地域一帯における米軍の戦略の一環として位置付けられている。対中国を第一の目的として建設されたこの基地は、韓国海軍のみならず、米軍をはじめとする他の同盟国軍が使用することが懸念されている(実際、2018年に行われた大韓国海軍国際観艦式では、米軍やカナダ軍の軍艦が入港した)。この基地の建設を進めたのは、「4.3事件」について初の公式謝罪を行ったノ・ムヒョン大統領であった。「4.3事件」に向き合うことと、(現在の)国民国家の維持という、原理的に突き詰めれば本来両立し得ない事柄を両立させるというアポリアが、ここにはある。

カンジョン基地ゲート前

軍民共有施設として建設された公共施設。このほか、運動場等の施設も整備された。

済州島と軍事基地との深い関係について、私たちは前日までのフィールドワークによって学んでいた。第二次大戦中、南京を爆撃するための戦闘機が配備された飛行場は、朝鮮戦争時には米軍のアルトゥル飛行場として使用された。現在もその土地は韓国国防省の管轄下にある。

戦闘機の格納庫。現在はモニュメントが格納されている。

格納庫の周辺には黙認工作地が広がっている

他にも、日本軍が使用した陣地や無数に掘られた壕も見学した。沖縄と済州の辿ってきた経験を、安易に比較することはできないが、しかし、太平洋戦争中に日本軍、そして冷戦時には米軍によって軍事要塞化され、なおかつこの構造が現在進行形であるという点において、両者は共通していると言えよう。

日本軍陣地

壕の中から。壕の掘削作業には多くの島民が動員された。

以上が、今回の出張の報告である。あまりにも濃密な数日間で、ここには書くことができず割愛せざるを得なかったこともたくさんある。強調しておきたいのは、済州は魅力的な島であるということだ。是非、一度彼の地を訪れ、美しい景色に触れながら、島の経験を自らの足で辿ることをお勧めしたい。

穏やかで透き通った海。海女さんが採ってくれる貝や、近海で採れるサバや太刀魚が済州島の名物だ。

最後に、今回の企画を立案し、実現してくださったキム・ウネ氏、そして吉田直子氏に最大限の謝意を示したい。加えて、この濃密な数日間を共にしてくださった参加者の皆様、出張をバックアップしてくださったEAAの先生方・スタッフの皆様、そして、私たちに自由な研究の場を提供くださっているダイキン工業に心より感謝申し上げたい。

報告者:崎濱紗奈(EAA特任研究員)