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2020.01.17

EAAセミナー「ライシテ再考——中国・日本の視点から」報告

2020年1月7日、東京大学駒場キャンパス101号館11号室にて、EAAセミナー「ライシテ再考——中国・日本の視点から」が開催された。講演者は歴史家の昝涛氏(ZAN Tao:北京大学副教授)であり、伊達聖伸氏(東京大学准教授)がディスカッサント、石井剛氏(東京大学教授)が司会兼通訳を務めた。講演題目は「トルコのライクリッキ——宗教と国家の関係あるいはイデオロギー」で、近現代トルコの政教関係を指す「ライクリッキ」の歴史と変容がテーマとなった(原題は「土耳其的世俗主义:政教关系与意识形态」)。本報告では以下、その様子をまとめる。

トルコのライクリッキの形成過程を概観したあと、昝氏が強調したのは、ライクリッキを定義することの難しさである。たしかに、1928年以降のトルコに国教はもはや存在していないし、1937年以降はライクリッキが憲法に記載されるまでになっている。しかし、その内実が明確に定義されているとは言えないし、トルコの近代化を進めたムスタファ・ケマル(1881-1938)も、ライクリッキを明確に定義しているわけではない。それゆえ、昝氏によると、政治指導者が変わるたびに、ライクリッキはその内実を変化させているという。

そこで昝氏は、ほとんど対照的な二つのライクリッキを示した。ひとつは、20世紀前半にケマルが構想した「積極的なライクリッキ」である。トルコの近代化を主導したケマルは、理性主義的なライクリッキを構想している。ケマルの考えでは、近代人は宗教を私的領域にとどめ、理性的に思考すべきであり、世俗国家は宗教制度と袂を分かたねばならない。ケマルは権威主義的かつ急進的に、この構想を実現しようとしている。このケマル・モデルに対しては、世俗の国家権力の安定化と引き替えに宗教的自由の後景化をもたらしている、という批判がなされることもある。

もうひとつは、現職大統領のエルドアンが構想する「消極的なライクリッキ」である。昝氏によれば、エルドアンは近代的語彙を用いてライクリッキを再解釈している。実際、エルドアンの公正発展党は近年、ライクリッキは反宗教的イデオロギーではなく、宗教的自由を保障する平和の原理であるという見方を、公式に表明するようになっている。ライクリッキという語彙を掲げることで、軍部を中心とする世俗主義勢力に配慮しているようにみせながら、ライクリッキの内実を再解釈することで、支持基盤である政治的イスラーム勢力の要求にも応じているのである。

昝氏は最後に、ライクリッキが変化している理由を、社会経済的に説明した。昝氏によると、かつての政治指導者の支持基盤は、都市部の裕福な西洋的知識人だった。しかし、1990年代以降は状況が変化している。国内経済の発展により、政治的にイスラーム寄りの中産階級が生じている。さらに、かつてから農村部にはケマル主義が十分浸透していなかったが、近年はそうした農村部の人びとが都市部に流入するようになっている。昝氏によると、こうした政治的にイスラーム寄りの新興勢力の台頭が、エルドアンによるライクリッキの再解釈をもたらしているという。

発表に続いて、昝氏と伊達氏のあいだで質疑応答がなされた。フランスのライシテを専門とする伊達氏はまず、トルコのライクリッキとフランスのライシテでは、「積極的」および「消極的」という形容詞の用いられ方が正反対であることを指摘した。昝氏は理性主義的なライクリッキを「積極的」、宗教勢力に好意的なライクリッキを「消極的」と整理したが、フランス元大統領のニコラ・サルコジはむしろ、理性主義的なライシテを「消極的」としたうえで、宗教の公共性を認める「積極的」なライシテを提唱したという。

質疑応答のなかで特に議論されたのは、翻訳の問題である。伊達氏は、ライクリッキの定義の難しさとその歴史的変遷を強調する昝氏に共感を表明しながら、ライクリッキやライシテといった言葉をどのように翻訳するかが、地域比較研究にとって重要なポイントになるという見解を示した。昝氏はこの指摘をうけて、ライクリッキやライシテは中国語でも「政教分離」と訳出されるが、少なくとも歴史的にみれば、ライクリッキやライシテに向かう動きには、「反教権運動」という訳語をあてたほうが、その内実に即しているのではないかと応答した。

翻訳される側の言葉の問題だけでなく、翻訳する側の言葉の問題にも議論は及んだ。中国語で「世俗的」というと、「俗悪である」というネガティヴなニュアンスが含まれかねないし、日本語の「世俗」はたんに「世間」を指すこともある。翻訳元の言語の概念的外延と、翻訳先の言語の概念的外延は、必ずしも一致しない。トルコを専門とする中国人研究者と、フランスを専門とする日本人研究者。両者のあいだでなされた翻訳をめぐる問答は、比較困難なものを比較すること、翻訳困難なものを翻訳することが、地域研究の醍醐味のひとつであることを感じさせた。

 報告者:田中浩喜(東京大学大学院博士課程)