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2020.07.15

2020年度春学期のEAA読書会(「文学と共同体の思想」)第三回

7月4日の読書会ではD.H. ローレンスの詩「snake」を扱った。一人の人間が水飲み場でヘビに出会った場面を描いた詩であるが、本読書会を通して大きく分けて二つの読み方ができると考えられた。一つは語り手とヘビ、語り手と水桶、ヘビと水桶という関係性を詩の中に読み込み、その関係性において前景化されている政治的含みを考察する読みである。そしてもう一つは、語り手とヘビの関係に中心点を置き、そこに人間と自然という対立軸に対するローレンスの思考を見出す読みである。

前者については発表者である王欽氏が始めに主張したものであった。この視点で読む場合、ヘビは語り手にとっての他者として現れており、語り手とヘビの関係は、国民国家における国民と外国人との関係などのように、様々な関係性に置き換えができる。詩の中では「黄金のヘビは毒を持っており発見し次第始末しなくてはならない」という意味の「education」がヘビに対する語り手の心理に浮かぶ。当初は先に水を飲んでいたヘビを単純に待っていた語り手であったが、次第にこの「education」が意識され、遂には木の枝によってこれを退散させてしまう。人間である語り手は動物であるヘビに対して、自分と異なる存在且つ害をなす存在であるが故にこれを退けた。ヘビは襲ってくるわけではなく、ただ単に水を飲んでいただけであるのに。詩の最後はヘビを退けてしまったことに対する語り手の後悔によって締め括られている。「And so, I missed my chance with one of the lords Of life. And I have something to expiate: A pettiness」。自身の矮小さを恨む語り手の心情は、現代の政治的状況における人々の葛藤を、そして度々現れた「education」はそのような葛藤を人々に齎す理屈や理論を表しているのだろうか。

これに対して、学部生参加者の熊文茜氏は、語り手とヘビの関係に人間と自然という対立軸を読み込めると考えた。人間は当然のことながら動物であるが、人間を犬や猫などと異なる存在とさせているのは、動物として生理現象に反応していく動物的な生の上に、文化活動等などを行う人間的な生を重ねている点にある。そしてとりわけ近代以降の人間は、自身の中にあった動物的な生から距離を取り、「理性」の名の下に枠づけられた人間的な生を強化していった。詩に出てくるヘビは、語り手が、そして人間が捨て去ってしまった動物的な生であり、その出現に対して苦しむ語り手は、動物的な生と離れてしまった人間的な生そのものの苦しみでもある。切り捨てた性質に対する憧れと恐れ、そして捨ててしまったことを再度反省し自信を改善するのである。佐藤麻貴氏もこの筋で解釈しており、両者の主張によって議論が深まった。

また本詩を読んだ上での一つの感想として、建部良平氏は本詩においてヘビが登場する点に関心を持った。古今東西の伝承や創作において、ヘビが様々な事象の比喩的表象として活用されてきた点との結びつきで本詩の読解の可能性を主張した。

報告者:建部良平(EAA・リサーチアシスタント)